撫順
今回の「戦争と医学」に関わる調査のスケジュールはすべて終えたのだが、医学に直接関係はなくても、ぜひとも見ておきたいところとして、撫順の平頂山と戦犯管理所を希望して予定に組み込んでもらっていた。今日(第10日目、27日)はすこぶる快晴。
撫順は瀋陽の東45キロメートルに位置し、渾河(こんが)の両岸に開けた街で、露天掘り炭鉱で知られる。バスで走っていると北の方角に山並みが低く連なってみえた。中国に来て初めて見た山だ。工場の煙突も散在してみられる。
露天掘り炭鉱
露天掘り炭鉱をよく見下ろせるところにバスは停まった。地上からすり鉢状に掘り進んでいき、トロッコをヘアピン状に数箇所底から上へ走らせている。いくつかある露天掘り炭鉱の大きいものは280メートルもの地底にあるらしい。雄大な景色である。
しかし、戦時下ここで中国の人たちは、日本の占領下にあって厳しい労働に苦しんだ。だから何度もゲリラの攻撃にあった。戦跡に詳しい団員の説明によると、こうした炭鉱は守備するのが大変で、攻めるゲリラの方はどこに手榴弾を投げても線路を破壊することができたと。
この炭鉱は今も使われているが、あと10年で廃坑にするらしい。
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雄大な東露天炭坑、だが西露天炭坑はさらに大きいという。 |
半日で村が消えた
1932年(昭和7)、関東軍憲兵隊は500世帯3000人の全村民を抗日分子に内通しているとの理由で山の麓に追いたてて殺害、ガソリンで焼き、崖を爆破して遺体を埋めた。1951年発見されて紀念碑建立。1972年遺骨館が建てられた。
私が平頂山事件について知ったのは、一昨年『平頂山事件 消えた中国の村』(石上正夫編著 青木書店 本体価格1900円 1991年発行)を読んでからだ。それについては「若田泰の本棚」に書いた。
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丘の上に建てられた平頂山殉難同胞紀念碑 |
15年戦争のはじまりとなった柳条湖事件の翌1932年9月16日、平頂山一帯の村民が虐されるという事件が起こった。それに先だつ同日午前1時5分、抗日義勇軍ゲリラが撫順炭坑を襲撃して日本人11名を死傷させる事件があった。
撫順炭坑は、日露戦争後のポーツマス条約で日本の管理となり、地元の中国人労働者を酷使して莫大な利益を上げていた。しかも、その日は、偽「満州国」が誕生した翌日、柳条湖事件1周年を3日後に控えて、日本帝国主義の横暴な振る舞いは中国人民にとって我慢できないほどに達していたということだ。
日本軍はすぐさま報復処置をとった。ゲリラたちは、撫順市の南部にある平頂山村を通過したはずであり、村民に協力者がいるに違いないとにらんだ。
協力者の特定などという方法は取らずに、村民全員殺害を決定した。守備隊・憲兵隊を中心とした関東軍は村を包囲し、お月見の翌朝を迎えようとしていた全ての村民を「匪賊(ひぞく)がくると家財も生命も奪われる。だからあんたたちを保護する」と駆り出し、谷底に追いつめ 機関銃の一斉掃射とダイナマイトの爆破によって皆殺しにした。
まだ日は中天にも達しておらず、ほんの半日の間の出来事であった。
半日にして小さな村がひとつ消された。かろうじて逃れた人々から事件の噂が流れはじめ一ヶ月後に中国の新聞が大きく報道した。しかし、日本では、敗戦を迎えるまでの13年の間、当事者以外事件を知るものはいなかった。
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入り口には「平頂山殉難同胞遺骨館」の文字がみられる |
平頂山惨案遺址紀念館は露天掘り炭鉱からバスでさらに10分ほど行ったのところだ。バスを降りて丘を少し下ったところに、平頂山殉難同胞遺骨館はあった。中に入るとすぐに、周辺の様子が分かるように示された模型があった。
しかし、この紀念館がどこに位置するのか、爆破された崖というのはどれなのか、埋もれた地域はどの範囲なのかがはっきりしない。
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平頂山村原貌模型(元の平頂山の模型) |
その先を少し進むと、一帯は、土の上に散らばっている白骨の山また山である。
この展示されているところは、発掘現場に屋根をとりつけた形でそのまま保存しているもので、ここには800体の遺骨が並べられている(死者は全部で3000人)。この土の下にも数百人あるいは数千人の遺体が埋もれているはずだ。
子供の骨、灯油の入っていたと思われるドラム缶、薪(まき)、家から持ち出してきたらしい重なった着物、子供を抱いた母親らしき大人の骨などの説明がついている。
なかでも胸に突き刺さるのは、「三層の白骨」と書かれた札の立ったところで、父親らしい骨がうつ伏せになって下に空間を作り、そこに妻と子が横たわっているらしいものだ。
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連なる数百の遺骨のいくつかには、中国語と日本語で説明が付けてある。これは「三層の白骨」 |
この虐殺事件をおこした部隊の責任者川上精一は、事件当時は、ちょうど留守だったらしいが、戦後責任を追及された際、「外人の裁きをいさぎよしとせず」の遺書を残して、宮城県荒浜で青酸カリを飲んで自殺した(1946年)。
事件の首謀者とみられた井上清一は沈黙したまま戦後も生きた。大陸に発つにあたっての妻の自決という異様な事件についても何もかもわからぬままである。結局、この事件で裁かれたのは、警察官1名と満鉄職員6人だけであった。
団長が記名して、団員一同花輪を前にして写真を撮る。
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花輪を囲み記念撮影する団員たち、供養・贖罪の思いを新たにした。 |
(次回は11月5日更新予定です)
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