中国・河北から東北の旅

☆9/24更新☆

第10回 凍傷実験室

 

731部隊罪証陳列館

 侵華日軍第731部隊罪証陳列館は1棟(本部)跡を利用したものだ。玄関前に立つだけで厳粛な気持ちにさせられ、731部隊にかかわるどんなささいな痕跡も見逃すまいという緊張した気分になる。まず、入り口近くにある説明文にひきつけられる。

731部隊罪証陳列館、ここは旧731部隊本部の建物を利用している

 

本部大楼についての説明碑

 731部隊罪証陳列館内部を見学した。「罪証文物」である血清瓶、防毒面具、捕鼠檻、細菌培養箱、濾水器、骨鋸等々の中に、解剖時に内臓を掛けたという解剖挂架(大きな釣り針型のハンガーで幅6cm 長さ54cm)があった。その用途が良く分からないので気になった。腸を開くために架けたものなのだろうか。

なぜか気になった解剖挂架、どのようにして利用したのか

 氏名の判明している犠牲者の名と写真が展示されてあった。この七三一部隊で「マルタ」にされた犠牲者は3000人、細菌戦による死者は30000人といわれている。

 王鵬館長の話では、この研究所は1982年発足、1995年陳列できる建物を作った。2000年に発掘を始めて今日に至る。

 年間見学者は約20万人、うち日本人は10%(2万人)、韓国人も10%(2万人)、他の外国人は5%(1万人)という。中国の青少年の教育に頻繁に利用されている。

 職員数36名は、管理や研究、教育を行なう上では少ないだろう。研究所としては実に不十分ではないかと思う。遺跡の保存も心もとない限りである。

王鵬館長から陳列館について説明を受ける

広大な施設・731部隊の遺址

 陳列館の外は731部隊の構内であるが、多くは失われてしまっている。

 抗日活動家を「マルタ」として閉じ込めたロ号館の監獄はすべて失われ、中心にあった建物では1棟(本部)と2棟(資材供給部と兵器庫)が残っているくらいである。

 監獄を結んでいたであろう地下道の一部を何ヶ所か掘り返しているが、覆いをかぶせても中に水がたまったところもあり、発掘が中途半端でこの先どうやって保存しようというのか、保存される保証もないまま荒廃するにまかせてしまうのか心配である。

731部隊罪証陳列館となっている1棟(本部)跡で、右端2階に隊長室があった

2棟(兵器庫)跡で、丁度1棟の裏側にあたる

地下道の一部を掘り返したところ、どう保存しようとしているのか。すぐ向こうにはアパートが建っている。


 ボイラー室の煙突は残ってはいるが、10年ほど前迄はその壁についていた鉄の網が勝手に取り除かれてしまった。こうしてだんだん朽ちてなくなっていく。ボイラー室の壁から飛び出して見られる太い鉄筋は、いかに頑丈な建物であったかを偲ばせる。

頑丈に残っているボイラー室の一部

ボイラー室の壁から飛び出してみられる太い鉄筋

 凍傷実験室も雨ざらしのままだ。一時も早い遺跡保存の対策が望まれる。

 生後3日の赤ん坊の指を摂氏零度の氷水に30分漬けさせ、皮膚温の変化を数ヶ月にわたって観察した実験を英文にまとめた生理学者(戦後、医科大学長にもなった)の人体実験はここで行われたのだろうか。

 その赤ん坊はどうなったのか、凍傷実験室の構造は何を意味しているのか、どの部屋で何をしていたのかも不明のままである。

雨曝しの吉村凍傷実験室

凍傷実験室内部、壁に丸くくりぬいた穴がいくつかみられたが冷風を送り込むための穴の前で


 死体焼却場にも近寄れない。二木(ふたき)結核研究室にも入れなくなっている。こうした管理の不十分さは、この先心細い感じがする。

二木結核研究室は囲いされていて内に入れない

 黄鼠飼育室や小動物飼育室を見学していると、丁度そこに仏教徒の一団が通りかかった。ここも、国民の教育の場として大いに利用されているらしい。
黄鼠飼育室

黄鼠飼育室内部、英文の説明にはyellow ratと書かれたあったが、ハタリスと呼ばれていたらしい

小動物飼育室を見学する仏教徒の一団


 引込み線のレールが生々しい。平房駅に直通しているこの線路を経由して、「マルタ」と呼ばれることになる被害者や、物資、研究材料が運ばれたのだろう。

平房駅に直通した引込線

 少し離れたところにある隊員官舎は、ほぼ当時のままの姿でアパートとして使われていた。

731部隊員の官舎となっていた建物


文化大革命での下放の体験者たち
 
 ハルピン最後の晩餐は、黒龍江省政府の招待で、迎賓館にて行われる。

 黒龍江省人民政府外事弁公室のお二人はどちらも日本語が達者で50歳くらい。ずっと同行している通訳の邵さんともども、18歳から4年間ほど下放で黒龍江省に来ていたらしい。それぞれ良い勉強になったとおっしゃる。

 文化大革命の誤りは4人組によるところが大きく、毛沢東の指導は知識人に農民の生活を体験せよということで意味はあったという解釈のようだ。

 そんな体験を経た後、それぞれ、日本へ留学もして、それが今の日本人との折衝を行なう重要な仕事に役立っているのだ。

 彼らの努力に感心するとともに、日本に来ている留学生たちに対して、悪い印象を持たせるようなことをしてはいけないとつくづく思う。

迎賓館での晩餐にご機嫌の隊員たち

(次回は9月24日更新予定です)

筆者紹介
若田 泰
医師。近畿高等看護専門学校校長も務める。
侵略戦争下に医師たちの犯した医学犯罪は許しがたく、その調査研究は病理医としての使命と自覚し、医学界のタブーに果敢に挑戦。
元来、世俗的欲望には乏しい人だが、昨年(03年初夏)手術を経験してより、さらに恬淡とした生活を送るようになった。
戦争責任へのこだわりは、本誌好評連載「若田泰の本棚」にも表れている。

 
本連載の構想

第一回
「戦争と医学 訪中調査団」結成のいきさつ

第二回
1855部隊と北京・抗日戦争紀念館

第三回
北京の戦跡と毛沢東の威信

第四回
石家庄の人たちの日本軍毒ガスによる被害の証言

第五回
藁城(こうじょう)中学校をおそった毒ガス事件

第六回
チチハル 2003.08.04事件

第七回
「化学研究所」またの名を五一六部隊

第八回
七三一部隊

第九回
戦後にペストが大流行した村

第十回
凍傷実験室

第十一回
「勿忘(ウーワン)“九・一八”」 9.18歴史博物館にて

第十二回
残された顕微鏡標本――満州医科大学における生体解剖

第十三回
人体実験に協力させられた中国人医師の苦悩・・・満州医科大学微生物学教室

第十四回
遼寧(りょうねい)省档案(とうあん)館

第十五回
白骨の断層 平頂山事件

第十六回
戦犯管理所での温情を中日友好へ

第十七回
戦争記録の大切さと戦争責任追及の今日性

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