中国・河北から東北の旅

☆10/08更新☆

第12回 残された顕微鏡標本
     ――満州医科大学における生体解剖

 

 夜の団員ミーティングでは明日の中国医科大での懇談の策略を練る。

 就寝前のミーティングの会場はいつもホテルの一室、副団長の部屋で、団員9人はベッドに坐ったり床に腰を下ろしたりとさまざまなくつろいだ格好でとり行なわれる。

 中国医大で説明していただける二人の医大教授とは、年齢から見て、本多勝一『中国の旅』に書かれている解剖学の姜樹学教授と微生物学の周政任教授だろうということになった。

 その予想はずばり的中することになる。

 旧満州医科大の研究を続けられている現教授
 
 第9日目(26日)。中国医科大学の前身である満州医科大は、南満州鉄道株式会社(満鉄)が1911年に、南満医学堂として発足させたものが、1922年大学に昇格したものだ。731部隊第二代隊長(1942年8月〜1945年3月)となった北野政次は、1936年から1942年までこの大学で微生物学教授を務めていた。1945年に中国に接収され、1948年中国医科大学に合併した。

中国医科大学正門、当時の満州医科大から731部隊に移って“研究”を続けた医学者も多い

 

中国医科大学の病理・薬学系の校舎、ここで満州医科大当時の話を聞いた

 中国医科大学(旧満州医科大)を訪ねる。授業の合間の30分をあわただしく時間をとってくださったのは、昨日予想した通り、解剖学の姜樹学教授と微生物学の周政任教授だ。

微生物学の周政任教授(左)と解剖学の姜樹学教授

 姜教授は、満州医大の時代から解剖学教室で技官として働いていた張不卿さんから聞いたことだと前置きして話された。

 張さんはある時、解剖の後片付けをしていていつもの医学生向けの解剖とは違うことに気がついた。
@解剖室には新鮮な血液が残っていた。
Aホルマリンで処理した死体は黄色いのにその死体は白かった。
B服装が違って、(刑務所からなので?)新しい制服を着ていた。解剖室の周りを憲兵が厳重に取り囲んでいた。椅子の上にも憲兵の軍靴の特徴である釘の跡が残っていた。

 これらが、生体解剖であったことを証明しているという。1941年から42年春にかけて満州医大解剖室で5回前後の生体解剖を行ったとみられる。被害者は全部で18〜19人で、張さんがその死体処理をした。担当の医師に質問するとセンケイ町から来たといった。そこは憲兵隊の所在地だった。

「極めて新鮮にして且健康・・・」な脳標本

 説明を受けた机の上には、数十枚のプレパラート(顕微鏡標本)が用意され、そこには黒く染色された脳の標本があった。新鮮でないとそんな色は出ない。

 標本には「Sn特」と書かれた標本も混じっていた。「Sn」とは鈴木直吉教授のイニシャル、「特」は神経線維を染める特殊染色(特染)の意味だと思われた。標本を並べる箱には「大野」という名前も記されていた。大野は鈴木教授の教室に所属する研究者だ。

脳のプレパラートの一枚一枚に「Sn」のサインが書き込まれていた。

 また、これらの新鮮な脳の標本に関する論文がいくつか残っている。

 大野憲司「支那人大脳皮質、特ニ後頭部ニ於ケル細胞構成学的研究」(解剖学雑誌19(6)昭和17年6月1日)や竹中義一「北支那人大脳皮質、特に側頭葉の細胞構成学的研究」(解剖学雑誌21(1)昭和18年1月1日)などの論文が、欧文のものもまじえていくつかある。

 いずれも指導教官は満州医科大教授、解剖学の鈴木直吉教授となっている。研究材料の入手については、その論文の中で竹中義一はこう説明している。

「今回余は極めて新鮮にして且健康、特に精神病学的病歴を有せざる北支那人大脳を、屡々(しばしば)採取する機会を得・・・」

 彼らは、心身ともに健康な中国人をどうやってしばしば新鮮なうちに解剖することができたのだろうか。また、その目的は何か。

 単に新鮮で美しい標本を作ってみたかったのか。新鮮で正常の標本を明らかにすることで、精神病などの異常な脳との違いが見つけられると思ったのか、あるいは人種や民族によって脳に違いがあるとでも思ったのか。

 姜教授は、これらの研究は自らの業績を上げるために、中国人を犠牲にして生体解剖したものだと断言された。

「支那人大脳」云々と書かれた研究書の目録には、大野や竹中の名前がみえる。

 

研究書に掲載されているスケッチと同じ標本が残っていた。これも「支那人」大脳についての論文である。

 その頃、抗日運動が激しかったという事実があるかという団員の質問に対して、数ヶ月間そんな事件があったと答えられ、被験者が政治犯である可能性を示唆された。
 
 また、大腿骨の標本も保存されていた。これは、死後取り出したものだろうが、折れた方の大腿骨が短くなっている。針金を巻きつけただけの手を抜いた治療で周囲は骨髄炎を起こしている。日本人医師は、中国人に対してだからこんな杜撰な治療を行なったのだと姜教授は語った。

治療の痕のある大腿骨の標本で骨髄炎を起こしている。

(次回は10月15日更新予定です)

筆者紹介
若田 泰
医師。近畿高等看護専門学校校長も務める。
侵略戦争下に医師たちの犯した医学犯罪は許しがたく、その調査研究は病理医としての使命と自覚し、医学界のタブーに果敢に挑戦。
元来、世俗的欲望には乏しい人だが、昨年(03年初夏)手術を経験してより、さらに恬淡とした生活を送るようになった。
戦争責任へのこだわりは、本誌好評連載「若田泰の本棚」にも表れている。

 
本連載の構想

第一回
「戦争と医学 訪中調査団」結成のいきさつ

第二回
1855部隊と北京・抗日戦争紀念館

第三回
北京の戦跡と毛沢東の威信

第四回
石家庄の人たちの日本軍毒ガスによる被害の証言

第五回
藁城(こうじょう)中学校をおそった毒ガス事件

第六回
チチハル 2003.08.04事件

第七回
「化学研究所」またの名を五一六部隊

第八回
七三一部隊

第九回
戦後にペストが大流行した村

第十回
凍傷実験室

第十一回
「勿忘(ウーワン)“九・一八”」 9.18歴史博物館にて

第十二回
残された顕微鏡標本――満州医科大学における生体解剖

第十三回
人体実験に協力させられた中国人医師の苦悩・・・満州医科大学微生物学教室

第十四回
遼寧(りょうねい)省档案(とうあん)館

第十五回
白骨の断層 平頂山事件

第十六回
戦犯管理所での温情を中日友好へ

第十七回
戦争記録の大切さと戦争責任追及の今日性

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