中国・河北から東北の旅
☆7/16更新☆

第3回 北京の戦跡と毛沢東の威信
 

盧溝橋と天安門

 
抗日紀念館からの移動の途中で廬溝橋を見学した。ここでの事件が中国全面戦争への契機となったのだ。

 1937年7月7日、日本軍の夜間演習中に鳴り響いた数発の銃声が端緒となって両軍が衝突、現地での交渉で一旦は収まるかに見えたが、日本政府は逆に派兵増強を決定して、中国全土への戦争拡大に突き進んだ。

 雄大で美しい眺めだ。幅260メートルの川には水が全くない。欄干には石造の獅子の像が多数並んでおり表情がみんな違う。橋はこれまで何度も修理されてきたが、中央部の凹凸のある石畳は金の時代(1192年)のままだという。

獅子の石像と石畳が印象深い盧溝橋
幅7.5m全長266.5m

盧溝橋から渇水した永定河上流を望む

 夕食後はホテルの近くを散策することにした。整備が悪くて凸凹に歪んだままの歩道は歩きにくかったが、ホテルから歩いて30分くらいのところに天安門広場があった。

 正陽門をくぐると中央に毛主席紀念堂、人民英雄記念碑があり、右には歴史博物館、左には人民大会堂などの建物がライトアップされて夜景に映えている。歩くこと20分、広場の奥にある天安門に行き当たる。

 その壁には、「人民共和国万歳」「世界人民大団結万歳」と書かれた看板に挟まれて、毛沢東の大きな肖像画が晧晧と照らし出されている。毛沢東の評価は今も高いようだ。人民公会堂の周囲には幾人かの無表情な解放軍兵士が護衛のために立っていた。

 私は、毛沢東の顔写真とあわせ考えて複雑な思いを持った。

 文化大革命の時には、紅衛兵たちが毛沢東を一途に崇拝し、この天安門広場に駆けつけて観閲をうけ感涙した。若者たちが自分の頭で考える事を放棄したことが文化大革命の悲劇を招いたとすると、ここに居るエリートといわれる解放軍兵士たちは、そのことをどれだけ理解しているのだろうか。

 国のために忠誠を尽くすことに第一の価値を置いているのならば、文化大革命の反省は充分になされたのかと言わざるをえない。その個よりも公を大切にする考えは、いまの経済優先をもたらした反面、個の軽視につながっていはしないだろうか。

広場から望むライトアップされた天安門

天安門に掲げられた威信を誇示する毛沢東の大肖像画

名刺が品切れ

 予想以上の人との接触で、10枚ほど持ってきていた名刺が二日目にして足りなくなった。頼りない紙にはなるが、コピーして補充しておこうと思った。

 ホテルの機械コーナーに行ってコピーを頼んだが、一枚残っている名刺を、2,4,8,16と倍々に増やしながらコピーしたいという私の意図を、係員に理解してもらえず大変。効率悪くだがなんとかコピーはできたものの、次は名刺大に切り取るのがまた一苦労、ひとり部屋でテレフォンカードをペーパーナイフ替わりに使ってやっと完成。言葉の通じないための苦労であった。

1855部隊跡の見学

 3日目(20日)、昨日話を聞いた1855部隊第二分遣隊のあった静生生物研究所(現在は生物制品所)を見学する。ペスト蚤(のみ)の生産を行なっていたところだ。今は薬品の監査・監督をしているところらしい。

静生生物研究所(現在の生物制品所)

開いたドアから見える板敷の地下から、戦後、ペスト菌の入った試験管が多数発見された

 その建物の前に古い木が1本植わっていた。多くの建物が失われた中でひとり残っているこの木は、きっと一貫して日本軍の悪業のすべてを見てきたのだ。

この木はすべてを見ていたか

 隣地は工事中、明の時代の神楽殿を修復中とか、ここは当時1855部隊員の居住地だったらしい。

元1855部隊員の居住地

 この後、北京から南へ300キロメートルのところにある石家庄へ向けて、4時間かけてバスを走らせる。

 私は北京に来てからまだ山を見ていない。高速道路の両側は一面が畑で、畑打つ人をチラホラ見かけるだけだ。農家の人たちはいったいどこで暮らしているのだろう。レンガ塀に囲まれた数十戸の平屋の集落が所々見えるがここが農家なのか、とすればかなり貧しそうである。

 風にそよぐ木の葉が白い裏を見せて、まるで白い花が咲いているようである。また、あるところは荒れ野である。幅数百メートルにわたって荒れ地のつづくところがある。もしかして、ある時期にはここに雪解けの水が大量に流れ込むのかなどと思ったが、本当のところは知らない。

 石家庄に近づくと煙突のある工場がいくつか見えて都市らしくなってきた。

(次回は7月24日更新予定です)

筆者紹介
若田 泰
医師。近畿高等看護専門学校校長も務める。
侵略戦争下に医師たちの犯した医学犯罪は許しがたく、その調査研究は病理医としての使命と自覚し、医学界のタブーに果敢に挑戦。
元来、世俗的欲望には乏しい人だが、昨年(03年初夏)手術を経験してより、さらに恬淡とした生活を送るようになった。
戦争責任へのこだわりは、本誌好評連載「若田泰の本棚」にも表れている。

 
本連載の構想

第一回
「戦争と医学 訪中調査団」結成のいきさつ

第二回
1855部隊と北京・抗日戦争紀念館

第三回
北京の戦跡と毛沢東の威信

第四回
石家庄の人たちの日本軍毒ガスによる被害の証言

第五回
藁城(こうじょう)中学校をおそった毒ガス事件

第六回
チチハル 2003.08.04事件

第七回
「化学研究所」またの名を五一六部隊

第八回
七三一部隊

第九回
戦後にペストが大流行した村

第十回
凍傷実験室

第十一回
「勿忘(ウーワン)“九・一八”」 9.18歴史博物館にて

第十二回
残された顕微鏡標本――満州医科大学における生体解剖

第十三回
人体実験に協力させられた中国人医師の苦悩・・・満州医科大学微生物学教室

第十四回
遼寧(りょうねい)省档案(とうあん)館

第十五回
白骨の断層 平頂山事件

第十六回
戦犯管理所での温情を中日友好へ

第十七回
戦争記録の大切さと戦争責任追及の今日性

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