北京の朝
第二日目(19日)の朝、ホテルの窓から見ると快晴のようだが、空気はやはり濁っている。「こんなのは黄砂とは言わない。砂ぼこりだ」と中国の人は説明してくれたが、公害問題として取り上げられないのかと不思議に思う。多くの車がいつも埃(ほこり)をかぶり道路の白線は見え難くなっている。
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ホテルの窓から見た北京の夜明け |
中国の細菌学者
今日訪ねた先は、抗日戦争紀念館だ。そこには郭成周さん(軍事科学院元教授)が待っていてくれた。郭成周さんは1916年生まれの88歳、主に上海で活動していた細菌学者である。1988年に退職後、生物・化学戦のことを知って関心を持ったと言われた。戦中、逝江省でペストの流行があって細菌培養も行なったが、それが細菌戦のせいとは全く知らなかったという。
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抗日戦争紀念館(北京) |
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細菌戦について語る郭成周さん |
1988年まで細菌戦について知らなかったということに団員たちは俄然興味を持った。それはどういうことか。ハバロフスク裁判についての本は出版されていたが、そこでの日本軍人の証言は細菌戦の準備と言う風に解釈されていたという。
1980年代初頭、日本で「悪魔の飽食」がベストセラーになったときも、関心は細菌戦よりも人体実験という異様な医学犯罪に向けられた。同じように中国でも細菌戦のことはあまり注目されなかったということか。中国では細菌戦の証言者は多くいただろうが、政府は積極的に取り上げずに、国の再興をまず重視したということではないかと思った。
細菌戦に関連した軍防疫給水部(石井機関)はハルピン郊外の平房にある731部隊本部以外にも4ヶ所設置されていた。そのひとつが、北支防疫給水部(北京甲1855部隊)で、1938年北京市天壇に設けられていた。同様の組織にはほかに、南京栄1644部隊、広州波8604部隊、シンガポール岡9420部隊があった。
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防疫給水部(石井機関)の設置場所 |
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大規模な細菌戦の行われた場所 |
謎の多い1855部隊
北京甲1855部隊の第一分遣隊は北京協和医学院を接収したもので、「細菌」「結核」「培地」「血清」「菌株」「血清」「BCG」「病理解剖」などを担当し、第二分遣隊は「静生生物研究所」を接収して、ペスト蚤(のみ)の生産を行なっていた。
第二分遣隊ではそれ以外に中国人捕虜を用いての細菌感染実験が行なわれていたとの複数の証言がある(伊藤影明氏など)。支部は16ヶ所あった。
中国解放後の1949年、放置されていた生物制品所の地下から試験管が1000個発見され、鐘品仁さんが分析した結果、ペスト菌株で、最も毒性の強いものであると確認された。細菌戦にはワクチンの予防注射が必要なので、本部では大量にワクチン製造をしていたのではないか。
石井四郎の使ったのと同じ細菌培養缶も大量に見つかっている。アルミニウム培養缶で作った細菌は金属のさびや雑菌が入ってワクチンには使えない。しかもこの数は人体実験用には多すぎる。つまり、細菌兵器として利用しようとしていた以外に考えられない。
曲昭然さんはもう亡くなられたが、15才から20才まで協和医院で働いていた。郭成周さんが5年前に聞いたところでは、清掃夫だった曲さんは中に入れず、重要な部分はわからなかった。曲さん以外の証人はいないので、生体実験をやっていたかどうかは分からない。図面も残っていない。
731部隊が主として細菌兵器についての基礎的研究と開発を行っていたとすれば、ここ1855部隊は研究だけでなくより実践的なワクチンの製造や細菌兵器の大量生産をやっていたのではないか。そんなことを考えたが、なにしろ残されている物や資料は乏しく、本部のあった場所には今は何もない。
話が終って記念撮影をしようというとき、郭成周教授は自分のカメラを取ってくると駆け出されて転倒、頬部に擦過傷を負われた。私たちの訪問が、同好の士を得た思いでよほどうれしかったのだろう。先生にはお気の毒だったが、この傷を負った写真もいい記念になるかもしれない。
抗日紀念館は、1987年に落成したもの。写真資料3800件、文物50000件である。展示物には日本で見たことのある写真が多かったが、ここは中国の子供たちが歴史を学ぶ場として利用されているらしい。紀念館の前に置かれた石碑には「前事不忘、後事之師」と刻まれていた。
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抗日紀念館前で記念撮影(2列目中央が郭成周さん) |
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