石家庄市と毒ガス弾
石家庄市は河北省(人口7000万人)の省都で、人口は140万人。 20日午後は、宿泊先のホテル(河北賓館)の会議室で、研究者や被害者の講話を聞いて意見交換した。
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会議場及び宿泊所となった河北賓館 |
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河北に残る戦争の傷痕について話を聞く |
1991年5月、石家庄の東に位置する藁城中学で学生寮の拡張工事を行なったとき、日本軍の毒ガス弾(窒息剤であるホスゲン)52発を掘り出した。後で分かったことだが、そこには戦時中日本軍の訓練場があったらしい。
20人以上がめまい、吐き気、呼吸困難を訴えた。2700人の生徒が罹災して学校は閉鎖になった。砲弾には「大阪、日本、軍工敞 昭和15年製造」の文字が見られたという。そこへは明日訪問する予定。
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毒ガス弾が出土した藁城一中 |
2003年9月6日、日本から専門家十数名が砲弾処理に訪れ、砲弾の頭と尾を分離して150キロメートル離れた地である西山に深く埋めた。このように戦後60年になろうとしている今も、日本軍の遺棄した化学兵器による事故が起こっているのだ。
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研究成果や体験を語る(左から)田さん、秦さん、何さん |
何天叉(中国抗日戦争史学会理事)さんは語る。日本軍の毒ガスは河北省に一番多く埋まっている。終戦時、河北省は国民党でなく共産党が強かったので、日本軍は敗北を認めず、戦争が終った後の1945年10月5日まで毒ガスが用いられたのだと(日本軍は10月5日撤退するときに、青酸ガスを使った)。
8月15日以後も敗北を認めずに、中国に毒ガス被害を与えていたとは驚きだ。
続けて、戦時中の日本軍の暴虐が次々と語られる。1942年5月北坦村で800人、125世帯が毒ガスの被害に会い、24家族が死亡した(若田泰の本棚「石切山英彰『日本軍毒ガス作戦の村 中国河北省・北坦村で起こったこと』高文研」参照)。1943年9月13日には井経県老虎洞で110名の住民を毒ガス被害にあわせた等々。
被害者でもある共産党の委員の秦光(元八路軍兵士)さんは語る。「百団大戦」で八路軍が戦果をあげた後の1941年1月、日本軍の反撃に会い、日本軍の毒ガスによって126名が死亡した。自分の背中には銃弾創があり、右腰部にはタムタム弾の爆発による破片が体内に残っている。昨年12月に、謝罪と補償の要求書を提出したと。
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自らの背中に残る銃弾創を示す秦さん |
研究家である田蘇蘇(河北省社会科学院抗日根拠地研究センター副主任)さんは、日本軍の数々の蛮行を話された。細菌を井戸水に撒いたり、飛行機からコーリャンに菌を投下したことなど。
いずれも聞くに耐え難い日本軍の蛮行が今も尾を引いているという証言であった。
今も残る多量の化学兵器
そもそも化学兵器は生物兵器同様、ジュネーブ議定書によって禁じられていたものだった。
にもかかわらず、日中戦争下において、日本軍が中国で毒ガスを使用した回数は2000回以上、9万4000人以上に被害を与え、死者は1万人をこす
(紀学仁『日本軍の化学戦』大月書店)。華北に限ると、133回107ヶ所で使用され3万7020人がなくなったという(謝忠厚河北省社会科学院教授の話)。
いったい、日本軍の毒ガスはどのくらい中国に残されているのか。中国側は約200万個といい、日本側は70万個前後、常石敬一は144万発以下と推定している(常石『化学兵器犯罪』講談社現代新書)。
そして、それらはすべて日本側の責任で2007年までに撤去することになっているが、順調に進んでいるとは思えない。場所の特定から始めてどうやって処理し終えるのか、大きな課題が残されている。
石家庄で招待された晩餐会は豪華だった。河北省人民政府外事弁公室副主任の馬さんは実に如才のない豪傑といった風だった。宴会好きなのが少し心配になるくらい・・。
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石家庄での夕も大歓迎された |
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