北野政次の満州医大時代
北野政次の使っていた部屋はそのまま微生物学教室の教授室として使われていて、その部屋に案内された。
何の変哲もないドアを開けて中に入る。事務用の机がふたつ向かい合ってならび、テーブルとソファで一杯となるそれほど広くない部屋だ。その机のひとつと椅子、部屋中央の壁の一面を占めている戸棚も、満州医科大当時のものだという。
周教授は、北野の使っていた机を戦後も10年間は使ったといわれた。9.18歴史博物館に展示されていたその机は、昨日見たところだった。北野と同じ場所にいまの机を置いている周先生の椅子に団員は交互に坐ってみて、当時の北野の心境を理解しようと努めてみた。
過去と現在が交錯する夢のような時間と空間を体験できた。
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旧満州医科大そのままの微生物学教授室入口 |
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北野政次の時代から使われている戸棚 |
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北野政次の使っていた椅子に坐る周教授 |
遼寧省档案(とうあん)館
中国医科大学訪問の間を縫って、遼寧省档案館を訪れた。
档案館とは政府管轄下の資料館のようなもので中央と各省にある。遼寧省档案館は、1951年設立、191万冊収蔵、並べると20kmくらいになるという。職員数110人、唐の時代より2000年代までのものを収蔵しているという。
私たちは、戦時下の日本軍の残した資料がたくさんあるのではないかと期待していたのだが、731部隊や100部隊、細菌・化学兵器についてはあまり資料を持っていないという。しかし、細菌や化学兵器を立証する資料は充分にあるし、一部は日本で公開したこともあるらしい。
団員たちは目録の存在やその見方、資料の探し方について聞いた。研究者でもある団員たちはとても熱心で、素人の私とは大違い。日本語で書かれていて放置されている医学論文などについて、協同研究の可能性などについても話し合った。
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遼寧省档案館前にて、館長や館員とともに |
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遼寧省档案館内での座談風景感謝の晩餐会 |
第9日目(26日)の夕食会は、この旅行中ずっと同行してくださった黄さんと邵さんに対しての感謝の会とすることにした。団員が一人ずつお礼の言葉を述べることになって、私は以下のような話をした。
「私は、研究調査団というものが初めてなら、北京・河北省・東北地方も、10日間という長期の海外旅行も初めてで、どういう旅行になるのかという見当もつかないで参加しましたが、すごく充実したスケジュールで多くのことを学ばせていただきました。このことを帰国後、私の関わっている看護学生や医師仲間、知人たちに多く知らせていきたいと思っています。
市や省の偉いさん方たちの歓迎や、先導車に導かれたりして、絶大なもてなしを受け、私どもの研究はそれほどの値打ちがあるのかとも思いましたが、実はこれもすべて、黄先生のお力と人脈、誠実さとお人柄のせいであったと思います。
じつは私は、七三一部隊長であった石井四郎と同じ京都大学医学部の出身、しかも病理を専門にしているということで、本研究会の第一回目に参加したときから、この問題に取り組むのは私の使命ではないかと思っていました。
そして、『30年勤続』表彰として職場で許された1週間の休みを利用して、この旅行に参加した次第です。また、今後ともお世話いただくことがあると思いますがどうかよろしくお願いいたします。」
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黄さん、邵さんへの答礼晩餐 |
他の団員たちもそれぞれ、毒ガス兵器や七三一部隊の問題に関心を持つようになったいきさつや調査団に加わった思いを話された。黄さんからは、このように戦争責任の問題に熱心な日本の方たちの存在を頼もしく思うし、今後の中日友好をともに推し進めていきたいとのご挨拶があった。
(次回は10月29日更新予定です)
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