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☆2020/5/17更新☆
京都市北区平野鳥居前町の紙屋川と御土居堀を、橋の上から見ています。ここは桜で名高い平野神社(平野さんの桜)の正門の東から150m、北野天満宮(梅の天神さん)の北門近くです。恐らくここは、紙屋川の川幅がもっとも狭い所でしょう。鷹峰(たかがみね)山中に源を発し、北野天満宮の西を流れたのち、天神川となって桂川に合流します。京都の市街地の西部を南流します。ここら辺では、紙屋川が御土居の外(西側)あって、「堀」(御土居堀)の役割を持ちました。
むかし、ここら辺に紙師が居住し、紙漉(かみす)きが行われたので紙屋川と称したのでしょう。御土居は豊臣秀吉の時代に造られた京都を囲む土塁で、全長が23km弱といわれています。外側の堀とあわせて御土居堀と呼びます。聚楽第、寺町、天正の地割とともに秀吉による京都改造事業の一つです。
京都府の実測調査によると、御土居の断面は基底部が約20m、頂部が約5m、高さ約5mだったといいます。堀があり、その幅は10数m、深さは最大で約4mだそうです。堀の西側の多くは紙屋川を利用し、また東部では鴨川を代用しました。土塁のための土は膨大な量が必要だったと推測されますが、どのように調達されたのか未だ解明されていません。
御土居の上には竹が植えられていたそうで、フロイスの『日本史』によると、秀吉が御土居に竹を植えさせたのは美観のためという見解が有力です。また御土居の内部からは大量の石仏が出土します。その一部がこの場所にも展示されていました。その理由にはさまざまな意見があるようですが、盛土を強くするためと愚考しています。
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