編集長の毒吐録
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☆2020/6/16更新☆

【読書雑記645】『西田信春―甦る死』(上杉朋史、学習の友社、1500円+税)。権力によって闇で処理された死の真実を追求し、その人間の全貌を追い求めた著書。北海道新十津川の出身の西田は、東京帝大新人会で活動後、社会運動に進み、日本共産党の九州地方責任者として福岡県で活動、その中で特高警察によって虐殺された。30歳で死んだ西田信春(1903年〜33)の初の本格的評伝と言えようか。

1924年4月、東京帝大文学部倫理科に入学。中野重治(ドイツ語学科)、石堂清倫(英文学科)と同学年。25年12月に新人会入会、卒業後、全日本鉄道従業員組合へ。28年1月、陸軍京都伏見連隊に招集、 12月除隊。 4月16日、治安維持法違反容疑で検挙、5月15日、未決囚として市ヶ谷刑務所へ移動。31年 6月13日、未決囚のまま豊多摩刑務所へ移され、11月保釈された。32年 7月、九州組織の再建のために、福岡へ。

33年2月10日、特高のスパイにより、久留米駅で捕縛された。翌2月11日、黙秘を通し、「警察は天皇に仕える。天皇に異論がある者は殺しても良い」という特高方針の下、逆さ吊りにして階段を4-5回上下されるような拷問で殺された。58−59年頃、無名者墓地で石堂が、死体鑑定書を見つけ、行方不明だった西田が虐殺されたことが判明したという。

「日は朗らかに春霞、木々は新しい緑色の美しさを噴き出してゐる。護送車から見る外の世界は躍って居る、出たい!出たい!」。30年4月24日付のこの文章は、東京の市ヶ谷刑務所から出されたものだ。差し出し人は、刑が確定する前の西田で、受け取ったのは中野。獄にある27歳の青年の、水が滴り落ちるようなみずみずしい感性を見よ!拷問死を遂げた小林多喜二の死去する9日前の33年2月11日のこと、30年という短い人生だった。

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