編集長の毒吐録
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☆2020/6/17更新☆

<きのうを振り返りあしたを見晴るかす❶>【2012年、孫にあてた手紙から、孫はいま大学4年生】変わりありませんか。中学校の生活も半分が過ぎて、慣れてきたのではないでしょうか。野球を中心として暮らしはどうですか。自分の中学校時代を振り返って想像しています。

僕は1945年8月18日に京都市内の産院で産まれました。大谷大学のグラウンドの東の産院でした。長姉が1931年、長兄が1933年、次兄が1934年生まれで、僕とは14歳、12歳、11歳も離れていました。母は38歳、父は42歳の時でした。当時でいえば2人とも「高齢」でした。/天皇がポツダム宣言を受け入れて、戦闘行為をやめるとラジオで言ったのは、僕が生まれる3日前のことです。戦争遂行を信じ、神風が吹いて「神国日本」は勝利すると信じ込まされていた、大多数の人々にとって、天皇の言明は衝撃だったようです。ですから、男の子(僕のこと)の誕生はある種の「希望」であり、明るい話題として、周囲の人から歓迎されたようです。

後から知ったことですが、京都には、広島、長崎に続いて、8月20日頃に原爆投下計画があったところです。投下目標地は京都駅の西1キロほどの、現在公園になっているところでした。もしも天皇のポツダム宣言受諾が遅くなっていたらと考えました。京都は盆地で、非戦災都市で、原爆の威力を確かめるのに絶好のまちでした。

姉や兄とは年が離れており、中学校2年の時は、3人とも社会人でした。父は生まれ故郷の峰山に帰って、自分の父との二人暮らしでした。僕が3歳のころからのことです。父とそれ以外の家族は別居生活で、1カ月に1回校長会などが京都市内で開かれるときに顔を合わせていました。中学校では、化学部に入り、2年の後半からは新聞部に属していました。/という調子で書くとキリがありません。今回はこれまで。/同封してある図書券は自由に使って下さい。2冊の本はいつか読んでください。

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