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☆2020/8/1更新☆
≪悼辞―前を歩いた12人 ❽俳人・金子兜太(1919年〜2018)は、<曼珠沙華どれも腹出し秩父の子><彎曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン>と詠んだ≫ 秩父の人である兜太は言う。「秩父事件の中心地帯である西谷は、荒川の支流赤平川を眼下に、空に向かって開けている。谷間から山頂近くまで点在する家は天空と向きあっている。夕暮れ、陽のひかりの残るその空を一頭の狐がはるばるととび去ってゆくのが見えたのだ。いやそう見えたのかもしれない。急な山肌に暮らす人たちに挨拶するかのように。謎めいて、妙に人懐しげに」 <おおかみに蛍が一つ付いていた>14年4月、椋神社に句碑が建立された。兜太は挨拶で、出征のさい、椋神社のお守りを母親が千人針に縫い込み、持たせてくれた。多くの死者が出たが守られ生きて帰ることが出来た。椋神社のご恩を感じていると挨拶した。熊谷を拠点とし、秩父は産土(うぶすな)として通い、土への親しんでこの句を詠んだ。「両神山は龍神山とも言われ、オオカミは龍神と言ったが絶えた。秩父を思うとき、オオカミが出てきてその時光を感じた。光の正体は蛍だ。それはトラック島での戦争体験から来ている」 98歳で亡くなった兜太は、<沢蟹(がに)・毛蟹喰(く)い暗らみ立つ困民史>と詠み、明治の自由民権運動の中に輝く秩父の農民たちの困民党蜂起を評価した。詩人の正津勉さんは<語り継ぐ白狼(はくろう)のことわれら老いて>の句を、明治まで秩父に多く生息し伝説にもなっているオオカミが困民党を導いた−そんな語り継ぎを仮想したうえで、「白狼」とは金子さん自身ではないか、と解釈している。
18年、窪島誠一郎とマブソン青眼と共に「俳句弾圧不忘の碑」の呼びかけ人となり、碑文を揮毫した。その碑に19年8月、頭を垂れた。
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