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☆2020/8/6更新☆
<75年目の8月6日に寄せて> 大学1年生の1965年7月、広島に行こうと考え、8月5日の夜行列車に1人で乗りました。前年の8月、豪雨の中を進む平和行進と集会を、京都で観ていましたが、そのことも影響したのでしょう。広島から帰って来て染色工場でアルバイトをしてバイト料の全額を広島の原爆記念病院にカンパして9月を迎えました。1945年8月18日に生まれた僕は、この年に20歳になりました。
<コレガ人間ナノデス/原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ/肉体ガ恐ロシク膨脹シ/男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル/オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ/爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ/「助ケテ下サイ」/ト カ細イ 静カナ言葉/コレガ コレガ人間ナノデス/人間ノ顔ナノデス(原民喜「遺書」)><原爆の投下された八月六日のことは鮮明に覚えています。五歳でした。近所の子たちと遊ぼうと思って、三畳一間が連なる長屋の戸をガラッと開けて表に出た途端、ピカーっと光ってドーンと物凄い音がしたんです。気がついた時は真っ赤な色が目の前にありました。よく見るとそれはお袋の血でした。ガラスの破片で胸を切りながらも私と姉を庇って覆い被さってくれていたんです>張本勲 被爆・敗戦から今日まで、<われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する>とする憲法前文を、「政府」と「国民」はどのように具体化してきたのか
降伏・戦争終結を、「国体護持」目的のために先送りし続けた天皇と戦争指導者たち。結果、東京、沖縄、広島、長崎等々、国内でも、不必要な犠牲は止むことがなかった。戦勝国・米国の焼夷弾・原爆による無差別攻撃は、戦争終結に必要な戦闘行為をはるかに逸脱した、大量殺戮としか形容できない無残だったのではないのでしょうか。
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