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☆2020/8/9更新☆
<75年目の8月9日に寄せて> ≪被爆体験の風化≫がしばしば語られます。直接の体験者が姿を消し、事実を伝える文物が少なくなる中で、当然といえば当然の結果かもしれません。<被爆体験>の継承が、なぜ希薄になったのか。どうすれば、被爆の悲惨をしっかりと認識し核兵器廃絶の決意を市民的常識とすることができるのか、ご一緒に考えませんか。
戦後、米国の支配下、とりわけて被爆の実相は隠蔽されてきました。ようやく、「京大綜合原爆展」(1951年)を嚆矢として運動が始まりますが、それは、残念ながら、世論を形成するほどの広がりを持ち得ませんでした。加害の米国は原爆攻撃を過ちとは考えていなかったのです。米国の傘の下に生きることを選んだ人々によって組織された政府は、当然のこととして、悲惨を知らせ、加害を糾弾し、核兵器反対の国内外の世論を作り出すための行動に極めて冷淡でした。
この国の政府がまっとうな政府だったら、マスメディアが勇気ある存在であったなら、≪被爆体験の風化≫などと嘆くことはなかったかもしれません。同時に<主権が国民に存する>とされた「私」の責任にも目をつぶってはならないでしょう。被爆75年の区切り、<核状況>を変える1年に、広島・長崎の無念に思いをはせながら、黙祷しています。
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