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☆2020/8/16更新☆
<75年目の8月16日(京都五山の送り火の日)に寄せて> 1943年(昭和18)8月16日の京都五山の送り火は、戦争に人手が取られていることや燈火管制を理由として中止されました。77年前のことです。当日の朝、ふもとの学童らが、白い姿で山にのぼり、人文字で“白い大文字”を演出したと伝わります(翌44年も同じ理由で中止。45年8月16日は、前日の天皇のラジオ放送の影響で、大文字が行なれませんでした)。燈火管制は、国民を戦争に動員し、戦争遂行に人々を駆り立てることを目的にしていました。
このことを僕らは知って、26年前の1994年9月23日、「50年ぶりの“白い大文字”を再現しよう」と全国に呼び掛け、1200人の参加で、“白い大文字”を実施しました。如意ヶ岳で、“白い大文字”が“灯った”のです。
燈火管制の法的根拠となった防空法(37年。41年、43年に改正)第一条は、空襲に際して陸海軍以外のものが行う任務を列挙していますが、そのトップが「燈火管制」です。空襲が現実のものになった43年の改正でも、燈火管制は、何にも優先して実施すべき「義務」となりました。燈火管制について、防空法第八条は「燈火管制ヲ実施スル場合ニ於テハ命令ノ定ムル所ニ依リ・・」としていますが、「命令」とは燈火管制規則のことです。規則は、「地上の暗黒」を演出する基準で、その規則通り、大文字は中止されました。
“白い大文字”は反戦・厭戦の意思表示ではありませんでした。しかしながら、“光”の代わりに“白い大文字”を選ぶことで、人々は戦争政策にのめり込んでいないという意思を示したのではないでしょうか。人々は防空法がうたった「光ヲ秘匿スべシ」の“光”の代わりに“白い大文字”をえらんだのです。僕はそう解釈しています。
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