福祉広場イラスト 福祉広場目次へ

最新更新ページ


◆ひゅうまん京都

◆ひゅうまん京都


編集長の毒吐録

☆2018/8/16更新☆

1か月後(9月16日、≪加藤周一没後10周年記念のつどい≫が開かれる。小森陽一さん (東京大学大学院教授、「九条の会」事務局長)が、「加藤周一と九条」の演題で話をする(9月16日〈日〉 午後 4時〜 6時、立命館大学国際平和ミュージアム 2階会議室、参加料は1200円〈当日払い〉)。僕は、5年前に12月(2013年12月22日)、「白沙会にかかわって」と題する報告をしたことがある。以下は、その全文。

加藤周一が、89年の人生に幕を下ろしたのは2008年12月5日のことだった。人が一人死ぬと、図書館がそれだけなくなると言われるが、加藤先生の場合、図書館だけでなく、博物館、美術館までもが消え去ったようで、いまもなお喪失感は深い。19歳で謦咳に接し、20代で「言葉と戦車」に触れ、30代に「日本文学史序説」で驚き、40歳代以降に直接交流を持ってきた人と別れて5年、没後初めて語る機会を得た。
                      
1989年9月19日、加藤先生の70歳を祝う会を、京都銀閣寺前の「白沙村荘」(はくさそんそう)で開いたことが契機となって、「白沙会」が生まれた。9月19日は、1919年9月19日生まれの加藤先生の古希の誕生日でもあった。誕生日その日に集まりを持つことができた。その後ほど親しいわけではなかった僕ら(湯浅俊彦さんと僕)の、「先生の70歳を祝いたい」という、厚かましくもぶしつけな願いを先生は聞き入れてくださった。なぜ、京都で、誕生日に、古希のお祝いの会を発想したのか?『加藤周一著作集』(平凡社)に60歳を出版社の応接室で迎えている写真が載っていたからだ。「70歳のお祝いの会を京都でやろう」ということだった。

先生が立命館大学で講じるようになってから、私たちの付き合いが始まった。1988年12月、立命館大学で開かれた「不戦のつどい」での講演をかもがわブックレット(『ある晴れた日の出来事―12月8日と8月15日』)にし、89年5月3日の憲法記念日に、鎌倉市主催で開かれた憲法講演会での講演を『憲法は押しつけられたか』(かもがわブックレット)にした私たちは、お礼を兼ねた懇談の機会を持った。考えてみれば、先生はこの2つの講演で、日本の現代史で重要な2つのこと、つまり戦争とその犠牲の上にできた憲法のことを語っている。後者の憲法について言えば、「改憲」派がいまも持ち出す「押しつけ憲法論」を完膚なきまで批判している。後年の「9条の会」の原点を見る思いがする。

先生の著作に関して言えば、「ブックレット」という形式は最初のことであり、講演を著作化したのも珍しいことだった。私的なことを言わせていただければ、両著とも僕が手を入れた。僕としては「加藤周一になりきって」ということだった。古希を祝う会には、白砂村荘の橋本帰一・妙夫妻など20人を超える人が集まった。大多数の参加者にとって先生の話を身近で聴くのは初めてだった。暑くも寒くもない一夕だった。参加者の質問に答えるという形式だったが、談論を愉しむ先生がそこにいた。若い参加者の「雑種文化の考えについて聞きたい」という問いかけが印象に残っている。談論風発、何時になったのか記憶に残っていないが、広い広い和室は、橋本関雪の画室だったところだった。

後日、僕らは先生の了解も得て、「白沙会」という名の勉強会を始めることになった。言うまでもなく、「白沙会」は、最初の集まりを「白砂村荘」で持ったからだ。勉強会にはテキストがいるということから、例会当日の『朝日新聞』を、広告も含めて使うことになった。先生が講義で京都に来られるのに合わせて、例会は開かれた。その成果が『居酒屋の加藤周一 T,U』(かもがわ出版)にまとめられている。先のブックレットとこの本は「加藤ファン」のすそ野を広げた。
                     
・20歳の僕は、加藤さんが同志社のアーモスト館の狭い部屋に入ってくるのを待っていた。20人ほどの参加者だっただろうか、20年ほどして「私もあの会合に参加していた」という人が現われた。加藤さんの鋭い眼光が印象に残っている。1965年4月のことだった。

・加藤さんを強く意識したのは、チェコスロバキアへの、ソ連軍の侵略事件だった。1968年8月20日、ソ連などのワルシャワ条約軍は、チェコスロバキアの首都・プラハへの公然たる侵略に踏み切る。23歳になった僕は、目の前で進む事件をどのように理解していいか、戸惑っていた。僕はその時、軽井沢で全学連の合宿中だった。全学連の合宿と言っても、集まったのは中央執行委員の共産党員。当然のことのように「アカハタ」が持ち込まれ、議論にもなった。なぜソ連は軍を出したのか、どうしてチェコスロバキアに犠牲が少なかったのか、これの影響はどうなる・・。

京都に帰ってしばらくすると、『世界』11月号に「言葉と戦車」と題する加藤周一の論文が載った。チェコ事件について書いている。筆者は、直前まで現場に居合わせている。民主主義国家がなぜ他国を侵略できるのか、ハンガリー事件とどこが違うのか、世界と日本に事件はどのように影響するのか。僕は、社会変革にあたってそれ以降揺るがない立場に立つことになる論理を、彼の言説からくみ取った。

加藤は「言葉は、どれほど鋭くても、またどれほど多くの人々の声となっても、1台の戦車さえ破壊することはできない。・・しかし、プラハ街頭における戦車の存在そのものをみずから正当化することだけはできないだろう。・・1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に対峙していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった」と書いている。そうだ。我々の試みは、圧倒的な言葉を積み重ねることに尽きる。そのことを本当には理解せず、暴力を持ち出すと黙ってしまうだろうと考えたモスクワ指導部の無恥さ。物事を考える基準を得たように思った。

・僕は93年、96年、00年の3回、京都市長選挙に立候補している。加藤さんにも推薦してもらおうと、お願いにあがった。先生は訴えに耳を傾けて言われる。自分はこれまで、選挙に当たって政治家を推薦したことが1度だけある。それは宮本顕治さんで、参議院選挙だった。宮本さんとは「展望」の対談で1回だけ会った。結果、良いことも悪いこともあった。良いことは宮本さんが当選したこと。悪いことは中国が入国を認めなかったこと。そんなことを語って、自分は一つのことを1回しかしないことにしている。そう言う先生だった。

・加藤周一は、森羅万象に、自分の意見、考えを持とうと務めた人だった。そして、前提として、事実を集めるのに力を注いだ人だった。戦争と核兵器を心の底から憎む人だった。京都大学正門右の「花谷会館」の由来を語ったとき、先生がしばらく沈黙しておられた。1945年秋のヒロシマを思い起こしていられたのだろうか。

バックナンバーはこちら

 
福祉にまつわる怒り、ほのぼの、なるほどがいっぱいつまったウエブマガジン
 ひゅうまん京都の表紙絵からとびだしました
  渡辺あふる美術館
 自然の息吹が写真と 
  「北の大地―幌内原野」から
   子どもたちの愛らしい笑顔 
 
今日の風景

戌いろいろ
(写真・文 スタッフ。クリックしてみてください)

困ったときは…
福祉なんでも相談
給食のプロが作るレシピ集

    乳幼児が大喜び
乳幼児レシピ
    おいしい治療食への招待
治療食レシピ

最新更新ページ
福祉川柳道場破り どっちもドッチ
フリートーク

 


●発行元/NPO法人福祉広場
〒603-8324 京都市北区北野紅梅町85
弥生マンション内
First drafted 1.5.2001 Copy right(c)NPO法人福祉広場
福祉広場ロゴ小  目次へ