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☆2020/8/18更新☆
<75年目の8月18日(僕は1945年8月18日に生まれた)に寄せて> 僕が歩んだ75年はふたつに分けられます。障害をもって生きた60歳代、70歳代の15年間と、そうではない、それまでの60年間です。2006年8月12日、僕は脳幹梗塞で倒れ、生死の境をさまよいました(そうだ)。以来、カラダに障害が残りました。障害者になって変わったこともありますし,変わりのないこともあります。
僕は1945年8月18日、京都市上京区(当時)の産院で生まれました。姉兄3人、父43歳、母38歳が家族でした。「1億総動員」体制の下、戦争が「銃後」の庶民生活を直撃しました。女学校の教員だった父は、生徒を引き連れて軍需工場に出向いていていました。「朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言(ポツダム宣言の文言・注)ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」との「終戦の詔勅」をラジオで聞いて、母は産院に入ったそうです。長じてから、京都盆地が原爆攻撃の目標地であったことを知って、自分の運命の不思議さに驚きました。
いまでこそ、「憎まれっ子世にはばかる」状態ではありますが、生を受けた当時は「玉のような男の子誕生」で近在の人がこぞって喜んでくれました(そうだ)。「敗戦」の報に打ちひしがれていた人々にとって、僕の誕生は「希望」だったのでしょう。以来60年余、僕は「非障害者」の道を歩みました。
「非障害者」の僕は大学卒業後、京都の農業団体に勤め、東京の農業雑誌の編集者の後、京都生協に職を得、京都府生協連の役員になり、1993年、96年、2000年の3回、京都市長選挙に出て“市長浪人”となり、NPO法人WEBマガジン・福祉広場をつくりました。脳幹梗塞で倒れたのは、61歳の誕生日直前の60歳の時でした。それから14年、僕は「障害者」として歩み生きてきましたし、これからも、妻・池添素の助けを得て、一緒に歩み続けるでしょう。
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