いつからかというハッキリとした自覚はない。
気がつくと、張りつめて凝固していた氷が春の包み込むような陽射しでゆっくりとその姿を壊し始め元の姿に帰っていくように僕の頑なな猜疑心、そう自分に対してそしてすべての人に対しての負の姿勢だ―でも、それが果たして負であったかどうかもわかりはしないのであるが―それがゆるゆるとした音を立てて溶解し始めていた。
僕は元いた僕だけの場所に帰り始めていた。
それは、僕に許されているフィールドの中でもう一度生き直そうとする気持ちの芽生えであったかも知れない。
情けない話だと思う。そうだ、僕はどうしようもなく、ダメで格好悪い人間なんだと思う。
真っ直ぐに伸びている道さえ、素直に歩けなかった。何か僕を陥れるものがそこに待っているような気がいつも拭いきれなかった。
何の障害物もなく向こう側が見えて真っ直ぐに伸びている道でさえ、何かに怯えて振り向いたり立ち止まったりしてばかりしていた。
今は何もないが、もう少ししたら僕をおとしめる何が立ち現われ、僕の世界をムチャクチャにしてしまうのでは、そんなことばかり考えてビクついていた。
精神病院への入院が僕のポテンシャルを完全に消し去ったのか。
いやそんなことはない、そうではなく、むしろ僕の生きづらい状況の原因をそれに求めていたに過ぎない。未来などというものに対して何も積極的に関与しないという僕の生きている態度の合理化の手段として入院を位置づけていたに過ぎなかったのでは……
純子という存在。彼女の中にある何かが僕に生き直しという作業を開始させる引き金であったのかも知れない。
「先生、僕の病気は治るのでしょうか?」
3回目の診察―いや、3回目なのか、4回目なのかの記憶はないから、何回目かの診察という言い方が正しい……いや診察の度にそう聞いていたような気もする。とにかく僕はそう聞いた。
「田島さん。精神疾患の原因はわからないと言いましたね。逆に言えば、何かの拍子で完治する、いや僕らの用語では寛解と言うんですけど、治る過程というものもこうこうこれこれという様に論理的に説明出来るものでもないのです。ただ、生活のリズムと服薬をしっかりと管理していけば、治っていくのも誰も否定出来ない事実なんです。何かの拍子と言いましたが、それはきっと生き直していこうとする患者自身が暗中の模索で見つけ出していくものではないかと私は考えているんです。私が絶対直すと言えば格好良いんだけど、自分の医師としての限界もよく知っていますし、私はあなたが治っていくプロセスをサポートするしかないんです。精神医学も臨床と薬の発展で何年か前よりもずっと進んでいます。でも、どこかの段階で治ったなどとは言えない事も又真実なんです。こんな言い方は医師として失格なのかも知れないけど、身体内部の何かのシステムが作用して癒すんだと私は考えています。私も最大限の力を尽くします。田島さんも私の治療プランに従っていただけませんか?頼りない言い方かも知れませんが、私が言えるのはそういう事です」
「先生、お願いですからもっとハッキリと言ってください。例えば僕の病名は何なんですか?」
「今は、以前言いましたように、精神安定剤と眠剤を処方していますが、あなたの症状は典型的なものがないんです。だから境界性の精神疾患なのだと考えられます。色々な急性期の患者を見てきましたが、それらの特徴的なものがあなたには出ていません。幻聴の傾向もありましたし、擬似的な幻覚、精神錯乱も見受けられました。ただし、それは持続的なものではありませんでした。薬の成果という言い方も出来るかも知れませんが、いまは精神の安定を完全に取り戻しています。きっと耐えられない精神的な苦痛が続き、正常な精神活動の波を狂わしたんではないでしょうか。恐慌的な発作でその苦痛を解決し、突破しようとしたのだとも言えますね」
「先生、では僕はもう治っているんですか?そうだったら、もうここにいる必要性はないのではないですか。退院出来るのではないですか?」
「田島さん。確かにそうです。退院させて下さいという申し出を断るしっかりとした理由は私にはありません。もう治ったと言えるかも知れません。さっき言った寛解という意味でね。でもね、どうしてそんなに焦るんですか?私は、もう少しここで静養した方がいいと判断しています。睡眠を軸とした生活のリズムを整えてからでも遅くないと思っています。長い人生です。精神病院に入院したということは、確かに今後、予測できない苦難をあなたに与えるに違いありません。でも、長い人生の一時期にここにいたということがそんなにあなたのハンディになるものでしょうか?人ごとのように聞こえたら申し訳ありませんが、そのことを、ここに入院したということです、それを越えていくのも立派な人生だと私は考えてもいいと思っているのですが。私の直感ですが、あなたにはその力、ええ、特別な能力と言ってもいいと思いますが、その力があるんだと考えています」
「先生、僕は早く退院して今まで通りに普通に働きたいのです。ここにいたら、僕の人生も止まってしまっているのと同じじゃあないですか。一体ここにいる意味ってどこにあるんですか……」
「いいですか。入退院の決定を下すのは、形としては私の診断ですが、私は思っています、その決断をするのは患者自身だと。医療、治療に関わる情報は適宜、わかりやすく患者の方に伝えていくのは治療者としての医師の義務です。患者の立場と状況を無視して専門的で難しい情報を、機関銃のように言い続けて患者を煙に巻くことは正しくありません。正常か異常かという提起に対しても、あなたは正常だと言わざるを得ません。さっき言いましたように、あなたの退院を拒む正当な理由を私は持ち合わせていません。でも、いいですか、私としては医療経験の限りを尽くしてあなたに対置していますし、もう少しここにいて静養した方がベターだという判断を覆すつもりはありません。あなたには、世事をすべて忘れてゆったりとした気分で過ごす必要があるというのが私の診断の核です。私は、あなたに優位的な立場を取るつもりはありませんし、こころから治癒してほしいと思っています。もう一度いいます、精神医療の現場においては患者が主の位置に置かれなければならないというのが私の医に関わる原点です。そして、今は、現時点という意味ですが、私はあなたの退院を望んでいません。その時期は未だ来ていないというのが私の判断です」
藤木医師の鋭さの中にも静かな優しさを湛えた眼と言葉の適切さに僕は圧倒されていた。
彼は、思い存分僕の事を考えて言っている、精神医療の専門家である以上にモラリストだという思いが、薄い紙に滲んでいく水のように僕のこころの奥底に拡がっていった。
そうかも知れない、僕はひとつも焦る必要などないのだ。すべてを忘れて、もちろんそれは言葉の綾であって生きている限り何もかも忘れてしまうことなど出来るはずなどないのだが、あえて果敢に忘れるんだ、僕自身を僕の力で癒すんだ―退院したいという欲求の片隅にもう少しここにいるべきだと気持ちが芽生え始めていくのを抑えきれなかった。
長い人生の中での一時の休憩。改めて何かに向かって再スタートするための猶予された時間―ひっとしたら、それは贅沢な、とんでもなく恵まれた事なのかも知れない。
僕はそんなことを想いながら、黙ったまま藤木医師の顔さえ見ることもなく視線を伏せていた。返す言葉を見つけることが出来なかった。
「田島さん。もう少しゆっくり考えて結論を出しませんか?」
そう言って、藤木医師は椅子から立ち上がった。
「先生、ありがとうございました」僕は、診察室を出ていこうとする藤木医師に向かって反射的にそう言った。
「田島さん。大丈夫だから……」振り返った藤木医師の微笑が、僕には眩しすぎた。
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