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先日(2005.03.24)の朝日新聞夕刊『夕陽妄語』で、加藤周一が『60年前の東京』と題して東京大空襲について書いていた。
死者8万人以上、負傷者4万人を超える被害を出したB29の爆撃のとき加藤は「東京の大学の附属病院で内科の医者として」負傷者の治療に当たっていた。「そのときできたことは、目の前の患者に鎮痛剤を与えること」だけであり、「できないことについて理解を深めたり感傷的になったりする心理的な余裕はなかった」と記している。
病院という狭い空間の内側にいて、事件全体の理解はできなかったけれど、当事者として被害者とともに行動できた連帯感を貴重な経験としているようである。
それはともかく、渦中にいるときに全体像がつかめないのは確かで、戦地で戦った人が戦争を一番良く理解しているとは限らない。しかし、そうした前線の兵士の視点を観察することは、戦争を理解する上で有力な方法ではないだろうか。
これまで、歴史を通観することで戦争を大局的に眺めることは繰り返し行われてきたけれど、兵士の視点から検討してみる研究はあまりされてこなかったのではないか。そう考えて著者は、一兵士からみた戦争を取り上げる意味を見出した。
著者がそう主張するには理由があった。
戦時中、中学生であった著者は教室で一人ずつ立って将来への志望を言わされたとき、軍人になると胸を張って言えずかといって時局にそぐわない答えをするわけにもいかず「船員になる」と答えたことを覚えていたからである。直接戦闘に従事するのは怖かったからだ。
この気持ちは多くの人も持っていたのではないか。そういえば、当時から「兵隊に取られる」という意識は多くの人にあった。ということは、兵士になったインテリあるいは農民たちの生の声には、戦争に対するさまざまな思いが含まれているのではないか。
赤紙一枚で突然に兵隊にとられて戦場に送られ、「人殺し」を行なわざるを得なくなる状況は、それまでの観念の世界から加害者であると同時に被害者ともなりうる立場への大きな変化を意味しており、そこには図式に当てはまらない事実が見出されるのではないかと思ったからだった。
こうしてまず、一兵卒として中国山西省に出向き白兵戦を交えた歌人宮柊二を探った。
かれは「ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す」という短歌を残している。次いで、銅板画の連作「初年兵哀歌」を遺した浜田知明を追い、さらに岩手県和賀郡藤根村に居て、七千通にも及ぶ兵士からの手紙や葉書を集めた高橋峯次郎について語った。
高橋峯次郎は、個人誌『眞友』を刊行して戦地の兵士たちに送り届けることを、 1908〜45年終戦までの38年間行なっていた。この雑誌は農民の気質の改良を意図したもので、高橋が「地方改良運動」の熱心な支え手であり、国策への疑念のなかったことを示している。
しかし、まとめられた書簡にみられるこの雑誌への感想や戦地の状況の報告は、多くの兵士の思いを探る格好の材料であった。そこで目に付いたのは、「建設のための戦争だ」「大東亜建設だ」「東洋永遠の平和だ」という大義の強調であり、このことは、兵士たちが強制された戦場に耐えることをみずからに納得させるためにはさらに飛躍するための大義名分を必要としていたことを示していた。
こうして、「きけわだつみの声」などを筆頭とするこれまでの規格化された「兵士」のはみだし部分に注目するのとは違った形で、ふつうの若者たちがどんな心理的または肉体的状況で戦場へ連れ出されて行ったかを、明らかにすることができた。
たしかに、「軍隊は悪」という図式に放り込んでしまうと、軍隊に対して、それ以上の解明がすすまなくなる。軍のことが解明できないければ、疑似兵営だった戦時下の国家自体の追及も不十分になってしまう。
ゆえに軍隊の研究は戦争国家への研究にも役立つはずであり、戦争に対する批判を紋切り型に終わらせないためには、こうした面からの研究は今後も強めることが必要だろう。とくに、憲法や教育基本法が危うくなっている今日においてはである。 |
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『兵士であること 動員と従軍の精神史』
鹿野政直 著
朝日新聞社
発行 2005年1月
本体価格 1300円+税
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筆者紹介 |
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若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。 |
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