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日本人なら誰でも知っている「桃太郎」、武力で悪い者をやっつけるという話は、時代によりさまざまに解釈され時のイデオロギーに利用されたであろうことは想像に難くない。著者はそれを丁寧に調べて本書にまとめ上げてくれた。
明治時代からすでに桃太郎は“皇国の子”であった。大江(巌谷)小波の『桃太郎』は、鬼が皇神すなわち天皇の教えにそむくので鬼を征服して皇国すなわち天皇の国を安泰にするものだとして描いた。
桃太郎は、無邪気で愛すべき民話の主人公ではあったが、はじめから“ナショナリズム”を背負い込まなければならない不幸を運命づけられていた。
“童心主義”がもてはやされた大正時代には、ナショナリズムは幾分影を潜めて、“自由主義”が投影される。
桃太郎が鬼が島に出かけるのは、「広い外国に出かけて力を試してみたい」という理由からだし、おじいさんやおばあさんとのコミュニケーションを多用して家族同士の愛情を強調したりする。が、この時代はあまり面白くない。
予想通り、傑作なのはプロレタリア文学の時代のもので、今読むと、失礼ながら荒唐無稽といわざるをえない。
江口渙『ある日の鬼が島』では、大威張りで「我こそは…」と名乗っても一向に神通力がない桃太郎は、一旦は逃げ出してしまい、もう一度出直したときには、大きな犬をけしかけてやっと鬼たちをやっつけることができたのだが、手柄と宝物を一人占めしてしまうという話。
入交総一郎『新桃太郎の話』では、「今の世に鬼なんていませんよ」と言うおばあさんに、おじいさんが「今の世の中に鬼はうようよしている。正直に働いている人間に、さも親切そうに言い寄ってきて、逃げられない様に鎖で縛って生き血を吸っている」と語らせる。
坂梨光雄『その後の桃太郎』では犬、サル、キジを、きび団子半分で搾取する桃太郎が登場する。宝物の分け前をもらえなかった動物たちは、乙姫を奪いに行くという二度目の要請の時には、相談してストライキ宣言をまとめ上げるという話。
本庄睦男『鬼征伐の桃太郎』では、鬼は地主であり、百姓たちは桃太郎を中心に鬼地主の屋敷を襲い、金銀財宝をとりあげて村の共同保管とする。この本には検閲で「伏せ字」にされるところも現れた。
いやはや、すべてを階級史観で解釈して教化に利用しようとするすごい時代である。
軍国主義が強まると、桃太郎はさらに苛酷な運命に追いやられる。
佐藤紅緑『桃太郎遠征記』は、西欧諸国を自由、怠惰、拝金主義、利己主義、悦楽等といわれなく非難し、日本を勤勉、正直、孝行、忠節等と独善的に評価した。こんな排他思想で世界制覇をめざす桃太郎の話の中身は語るに落ちるといったものであった。
大長編マンガ映画『桃太郎の海鷲』は、上映時間50分で技術レベルの高い作品ではあったが、アメリカの真珠湾を鬼が島にみなし、海鷲――すなわち海軍航空隊の長であった桃太郎が、犬、サル、キジなどの部下を率いて奇襲するというストーリィで、中身はお粗末、「鬼畜米英」の通り、まさにアメリカを鬼として描いたものだった。
戦後は、戦犯・桃太郎への“みそぎ”で忙しくなる。
鬼征伐や鬼退治ではなく、「鬼と話し合う」ために出かけて行ったり、桃太郎と鬼のかしらがジャンケンで勝負したりする。
森街三郎『ただの桃太郎』は、「日本一」と書かれた旗を捨て去り、「日本一というものにろくなものはありゃしない。ぼくだって同じことさ。だから、ぼくはきょうから、日本一の桃太郎じゃない。ただの桃太郎だよ」というようになる。
にわか仕込みの「民主主義」は今見ると滑稽だ。
こうして桃太郎の話は、今日的に再創造されることになった。
犬、サル、キジも主従関係ではなく仲間として設定される。鬼が島遠征の動機も、鬼が村人の生活を脅かす存在であるからであり、侵略ではなく、一種の正当防衛であるということになった。
しかし、困ったことが起こった。昔から民話で最後に幸せを手にするとき、その具体的な内容は富、美人の妻、権力と決まっていた。取り分以外の富は受け取らないとなると、民話の原則を根底から覆してしまうことになるのである。
さて、これからの世の民話の結末はどうしたものだろう。 |
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『桃太郎の運命』
鳥越信 著
ミネルヴァ書房
発行 2004年5月
本体価格 2200円+税
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筆者紹介 |
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若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。 |
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