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『日本軍毒ガス作戦の村 中国河北省・北坦村で起こったこと』

石切山英彰 著

今、中国のあちこちに遺棄されてある毒ガス兵器の被害が問題になっている。国際法で禁じられていた化学兵器を日本軍は先の大戦で製造し使用した。実に中国での毒ガス弾の使用回数は1312件、それによる被害は死傷者3万数千人、うち死者は2千人以上といわれている。

1942年5月27日に中国河北省・北坦(ペイタン)村で起こったことは、毒ガス兵器を使った日本軍の残虐さを示してあまりある。

この村で、地下道に避難した中国の軍民1000人に対して毒ガスを流し込んで、窒息死あるいは息苦しさに耐え兼ねて出てくるところを刺殺・銃殺した。強姦も行なった。

しかも、この事件にあらわれているのは毒ガスによる大量虐殺というだけではない。“殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くす”の三光作戦、さらには“強制連行”にも関係したものであるのだ。

中国を侵略していた日本軍は、1942年5月1日から6月20日にかけて冀中(きちゅう)作戦と銘打って抗日運動の壊滅作戦を行なった。

「冀」は河北省の略称で冀中とは河北省の中央平原部を指す。そこを根拠地として日本軍に頑強な抵抗を続ける共産軍とそれを支援する民衆の殲滅を狙ったものであった。

平原地帯でこのように抵抗できた主な理由は、地下道をもっていたことだ。山岳地帯と違って身を隠せる地理的起伏がないところで、日本軍の襲撃から命を守るため民衆は地下に隠れ場所を作ったのだ。

北坦村では、三ヶ村7〜8キロの間の地下壕を連結したところもあった。

著者が初めて北坦村を訪ねて被害者たちの話を直接聞いたのは、北京大学留学を終えた1988年だった。

生き残った李徳祥さんは証言する。20歳であった1942年5月27日夜明け前、日本軍が北坦村を包囲し、明け方から戦闘がはじまった。八度目の突撃が防ぎきれないで日本軍の村への侵入を許した。

日本軍は村に入ると、地下道の入り口を数ヶ所発見して、地下道にガスを投入した。毒ガス兵器の形状は、ちょうど懐中電灯のような円筒形で、鉄製だった。

民兵隊長をしていた李さんが地下道にはいったのは午後1時頃で遅いほうだった。だから、毒ガスの被害が少なくて済んだ。それでも喉が渇き嘔吐し息が詰まった。

多くの仲間が毒ガスで殺されたあとの午後3時頃、地下道から引きずり出された。毒ガスの症状が少し和らいで周囲の状況が目に入るようになると、そこでは日本兵による数多の残虐行為が行われていた。

毒ガスにおかされて瀕死状態になった年寄りや子供や年若い女性や妊婦たちが…、軍用犬に襲われたり銃剣でさされたりして殺されていた。数日監禁された後、数人の仲間と壁を壊して穴を空け、地下道に逃れて脱出した。

この事件について、李さんは、1956年瀋陽で行われた日本戦犯を裁く特別軍事法廷でも証言した。163部隊連隊長であった上坂勝はその証言が事実であり、自分がその虐殺を命令したことを認めた。

著者は、帰国後、日本の「公刊戦史」といわれる『戦史叢書』(防衛庁防衛研修書戦史室編 朝雲新聞社刊 全102巻)の中の50巻『北支の治安戦(2)』に<冀中作戦>という文字をみつけた。

それは中国側の言う「五一大掃蕩(ウーイーターサオタン)」の時期とピタリ一致するものだった。事件については日本側の記録でも証明されたわけだが、さて毒ガスとは何だったのか。

その日本側の記録には「『発煙筒』の投入を下命した」とあったが、これらは毒ガス「あか」の可能性が高い。いわゆる嘔吐剤(くしゃみ剤)で、化学名はジフェニールシアンアルシンである。

著者は、当事者であった163連隊大隊長大江芳若と面談した(1990.08.15)。

「毒ガスのことは覚えとらん」といいつつ「習志野学校では、『あか筒』なんぞは毒ガスと認めておらんかった」「使ったかどうかは別として、兵隊は『あか筒』を持っとったでしょうね」「『あか筒』を使ったかもしれない」ともいった。

少しは反省したかに見えたこの大隊長は続けた。「戦争勝っとれば、僕なんか金鵄勲章の功三級位のとこや」「満州は、非常にうまく行ってた。『王道楽土』だ。それなのに、シナへ行ったのがいけなかった。…」日本の戦争への反省がどの程度のものかが伺い知れよう。

北坦村事件が、強制連行にも関係したとはこういうことだ。命を奪われることはなかったが「奪い尽く」された人たちは、満州や日本に強制連行された。日本が降伏するまでに、華北から満州へ送られた人は42万人、日本へは4万人が運ばれて6862人が死亡した。これも歴史的事実である。

『日本軍毒ガス作戦の村 中国河北省・北坦村で起こったこと』
『日本軍毒ガス作戦の村 中国河北省・北坦村で起こったこと』
石切山英彰 著
高文研
発行 2003年8月
本体価格 2500円+税



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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