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著者は、1987年に56歳で亡くなった近世・近代文学研究者(念のため男性)。瀬戸内寂聴との対談『名作の中の女たち』(岩波書店1996)や『樋口一葉の世界』(平凡社選書1978)を読んだくらいだが、その博学なうえに鋭い着眼と分析力は恐れ入るばかりで、穏やかで紳士的な人柄の印象とともに、実に惜しい人を若死にさせたものだと残念に思っている。
本書が選んだ近代文学の女性は、樋口一葉『にごりえ』、尾崎紅葉『金色夜叉』、森鴎外『雁』、有島武郎『或る女』、谷崎潤一郎『痴人の愛』、大岡昇平『武蔵野夫人』の主人公たち6人。朝日カルチャーセンターでの講義を基にした「語り下し」だそうで、じつに平易な文章で書かれていてわかりやすい。そこに著者の深い「読み」を知ることができ、過去に読んだ小説がまた味わい深くよみがえってくる。
6作品の中からひとつ森鴎外『雁』を紹介しよう。著者は、この作品を取り上げるにあたって、漱石との対比で鴎外を特徴づける。作品数は鴎外のほうが圧倒的に多いけれど、現代小説となると漱石のほうが多いしよく読まれている。漱石は小説を現在形で書いたが、鴎外は完了形あるいは過去形で書いた。それは、鴎外は最後の結末を、筆を下ろすときに見通していることにもよるという。
漱石『三四郎』に対抗して書いた『青年』には、鴎外と思しき毛利鴎村という作家を登場させていて、主人公が持つ感想としてこう描いている。「干からびた老人の癖に、みずみずしい青年の中にはいってまごついてゐる人、そして愚痴と厭味を言ってゐる人、竿と紐尺(ひもじゃく)とを持って測地師が土地を測るやうな小説を書いてゐる人・・・」謙遜しつつも鴎外はこんな自画像を持っていた。
鴎外は、最初の妻と離婚した後、歩いて直ぐのところに母親の紹介した妾を囲っていた。鴎外は作品で、留学先ドイツの“踊り子”から絵のモデル、未亡人や芸者を描いているが、漱石は、『草枕』の那美さんや『三四郎』の美彌子、『虞美人草』の藤尾など謎に包まれた女性しか描かない。
鴎外と異なり漱石はほとんど花柳界に足を運ばなかったようである。漱石は妻となる鏡子と見合いした後、「ああいう具合に率直に歯をかくさずに笑うところが好ましい」といっているのに比し、鴎外は、二度目の妻を迎えたときに「このたびは少々美術品らしき妻をあい迎え」という手紙を残している。これだけでも、鴎外の体制順応の考え方がわかろうというものだ。
さて小説『雁』についてである。鴎外のナルシズムは、主人公の岡田を美青年にしたことにも表れているが、この作品で鴎外は一人三役をこなしているという。僕という狂言回しである語り手と友人である主人公岡田、そして妾を囲っている旦那である。
この小説の女主人公お玉は、愛することを知る中で自我に目覚めた女性ということだが、実はこの純愛小説にも、鴎外のずるさを隠す「しかけ」が用意されていたのだ。
「僕」は下宿屋の夕食に出た“さばのみそ煮”が嫌いで、外食をしようと岡田と一緒に無縁坂を下りたために、お玉が声をかけられなかったと書いているけれど、仮にお玉が岡田を呼び止めることに成功したとしても、もう次の日には岡田は外国に発ってしまうことになっていたのだ。
ふたりを結びつけなかったのは、運命のちょっとしたいたずらと読者に思わせるように描いているけれど、じつは、体制内エリートの鴎外にはそもそもおこりえない「恋愛」であったのだ。
著者も書いている。「鴎外は、『舞姫』のときに太田豊太郎がエリスを捨てる、その捨て方が非常につらい捨て方をしたことを知っておりますから、この『雁』ではそれをうまくずらしたわけです。さらにただ単にずらしただけではなくて、釘一本という偶然を、いわば表面にかぶせて、そういう『舞姫』的な危機を回避した」と。
ああ、鴎外っていやなヤツというのが率直な私の感想。
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『近代文学の女たち』
前田愛 著
岩波現代文庫
発行 2003年7月
本体価格 900円
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筆者紹介 |
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若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。 |
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