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『芭蕉 二つの顔』
田中善信 著
 「漂泊の詩人」ともいわれる俳聖芭蕉の伝記研究は、すでに江戸時代よりはじめられているが、明らかなのは、旅に過ごした晩年の10年間だけで、それ以前についてはほとんど空白のままであるという。

40歳以前の芭蕉を知りたいと思って研究をはじめた著者の前に明らかになったのは、伊賀の農人の次男が、長けた処世術と運によって、いかに「俳聖」の名を得るに至ったかであった。

しかし、長けた処世術に拠るものだったから、芭蕉の到達した境地が偽りのものであったというのではない。むしろ、終生彼につきまとった現実的な苦労や悩みの種を知ればこそ、その境地の意味が本当に理解できるのではないかと思わせるものであった。

芭蕉の子ども時代のことは何ひとつわからない。13歳のとき父と死別して、藤堂新七郎という武家に仕えていたらしい。そこで2歳上の若主人の寵愛を得、俳諧にも親しむ。

その後、江戸に出て神田上水の水道工事に関わっていたらしいが、何を生業としたいたかもわからない。芭蕉の事跡がはっきりしてくるのは、先にも述べたように41歳の『野ざらし紀行』の旅以後である。

  まず第一の驚きは、芭蕉は、士分でなく農人であったということだ。早くに親を亡くして奉公の苦労を味わっていた。しかし、それ以外にもいくつかの謎がある。

一つは、芭蕉の最後の旅にも随行していた次郎兵衛という者の母、寿貞(じゅてい)が芭蕉の妾であったということだ。

寿貞には次郎兵衛を含めて3人の子があった。次男であった芭蕉が妻を持たないまま妾を持ったことは当時として不思議はなかったが、さて3人は誰の子であったのか。

はたして、ふたりはいつ知りあってどういう関係を持っていたのか。どうも、次郎兵衛は連れ子で、後の二人も芭蕉の子ではないようである。

さらに大きな謎がある。芭蕉の甥であった桃印(とういん)は、16歳のときに芭蕉に連れられて江戸へ出て来て養子となったが、32歳で没する。しかし、その間、どこで何をしていたかが全く分からない。

桃印という俳号を名乗りながら、かれは一句の作品も残していない。彼の名が記されるのは、労咳で瀕死の床にあったときだけである。桃印のもう一つの謎は、江戸に出てから死没するまで一度も故郷に帰っていないことだ。

著者は、それらの謎に対して、残されたわずかの記録をふまえて大胆な推理を試みる。

妾である寿貞と養子とした甥の桃印は夫婦となったのではないかという。しかも、それは芭蕉の知らぬ間の密通によってではないかというのだ。

当時、妾とはいえ密通は罰せられた。愛する女性と愛する甥を赦しかつかばうために、甥の死を偽装して、罪に問われることを防いだのではないかというのである。だから句集に桃印の句は一つも入っていないし、また、義務づけられていた伊賀への帰省も行っていない。

桃印たちは江戸の片隅で息を潜めて生き延びていた。直接したためた手紙のないのもそのためだと著者は推理する。

  あの芭蕉にそんな生臭い人生があったとは驚きではないか。その人間的な思いに泣けるではないか。資料を綿密に調査して推論する著者の努力に敬意を払いつつ、俗世間を超越して無欲に生きたと思われていた旅人芭蕉の境地が、人間の業を知りつくした上でのものであったことに感動する。

本書は、雲の上にまで上ってしまった聖人を俗社会に引き戻して貶めようというのでは決してない。

俗世間で人並みの苦労を味わい、俗人の一面もあったと知ることの意外さが、人生の真実の一端を知る面白さであり、その真偽はともかく、さもありなんと思わせるところがこの評伝の醍醐味なのだと思う。

『芭蕉 二つの顔』
『芭蕉 二つの顔』
田中善信 著
講談社選書メチエ
発行 1998年
本体価格 1,500円



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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