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『異議あり! 生命・環境倫理学』
岡本裕一朗 著
 発達し過ぎた科学に歯止めをかけ、物質と精神との調和のとれた暮らしやすい社会にしたい、そのために期待できるのが生命・環境倫理学などの応用倫理学だと思っていた私にとって、 本書はいささか刺激の強いものであった。

本書は、1970年頃から発達してきた生命・環境倫理学はほとんど社会に貢献しなかったし、その基軸自体が大きく揺らぎながら今日に至っており、 もはや学問としての存在意義はないのではないかという。

たとえば生命倫理学では、「自己決定権」の原理が大手を振ってまかり通ってきたが、援助交際を批判する上で無力であることが明らかとなり、 クローン人間や遺伝子改造についても押しとどめることができない。

また、環境倫理学で叫ばれた「人間中心主義への批判」は、文明生活の否定や動植物を優遇することに道を開くことになり、 なんとも現実とは遊離した議論に陥ってしまっているのだ。

医療技術はますます高度化し、環境破壊はどんどん進行しているのに倫理学はそれに対応できていない。

「妊娠中絶擁護」を主張したトムソンは、女性の自己決定権を最優先させた。彼女は、 「胎児も人間である」とした上で、「(胎児は)母親の身体を使用する権利もなければ、使用し続ける権 利もない。母親がその使用を認めるとすれば驚くほど親切なことだが、彼女がそれを拒否した としてもそれは道徳的に不正ではない」とした。

しかし、女性の自己決定権が第一だからといって、海外旅行を延期するのが面倒だという理 由で中絶することはゆるされないだろう。中絶の条件とは何か?「不正な殺人」と「不正でない殺 人」があるのか?そのことにトムソンは言及できなかった。

また、倫理学者トゥーリーは「胎児と新生児は生存権を持たないので、妊娠中絶と新生児殺 しは道徳的に許容可能だ」といった。

生存権を持つかどうかは人間であるかどうかではなく、「パーソン」であるかどうかによって 決定される。「パーソン」とは、「持続的主体としての自己意識」をもったものだ。だから、ゴリ ラが生存権をもつ可能性はあるが、胎児や新生児は生存権を持たないとした。

これに対して著者は、「パーソン」にだけ生存権を認めることは「種差別主義」(自分が属して いる種を中心に考えて他を差別すること)ではないか、「自己意識をもった生物」が人間だけだと 仮定して、「人間」というところを「パーソン」と言い換えただけではないかと迫る。つまり、 この議論は論証にはなってなく、定義を繰り返しているだけではないか。

生命倫理学とはこの程度のものだから、あちこちの倫理委員会なるものも、「国民の合意に は至っていない」とか「時期尚早」というくらいで、最先端医療を追認するだけの役割しか果たせ ないでいるのではないかと私は思う。

環境倫理学になると、問題はさらに深い。「人間による自然支配」が環境破壊を招いたと唱え るが、非人間中心ということがありえるのか。このままでは地球は滅亡するという終末論を前 提にして環境保護を喧伝するが、地球全体に我慢を強いる「環境ファシズム」ではないか。

70年代には「人口増加と資源枯渇・地球寒冷化」論が唱えられたが、80年代以降は「地球温暖 化」一色だ。著者は、このファッションには裏があるという。

「環境保護」というだれも反対しない正義派のイメージで、たとえば「原子力発電は二酸化 炭素を出さない。炭酸ガスは地球環境を悪化させる。だから原子力発電は環境にいい発電だ」 というような政治的利用が大いにあるのではないか。

環境保護という大義名分で、発展途上国の発展を阻害し、北側が南側を支配する政治的道具 になっているのではないか。

こう語る著者の専門は応用倫理学だから、自らの活動をふまえて、生命・環境倫理学がさま ざまの問題をどのように論議してきたかが、実にわかりやすく著述されている。

興味深いのは、倫理学の思考方法で、しつこいほど極端な状況に仮想の例を求めて、法則化 を求めようとしていることだ。応用倫理学の難解な世界を垣間見られるし、だれでもが論議に 参加できる分野であることがうれしい。

私には応用倫理学が無用になったとはとても思えないが…。
異議あり! 生命・環境倫理学
『異議あり! 生命・環境倫理学』
岡本裕一朗 著
ナカニシヤ出版
発行 2002年12月
本体価格 2600円



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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