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『漢字と中国人 文化史をよみとく』
大島正二 著
 私たちは漢字が中国から伝わったことは知っているが、それ以上なにも知らないことに、本書を読むと気づかされる。本書は、漢字の歴史書であるとともに、漢字にまつわる中国の人たちの苦労と格闘の記録でもある。

 まず、漢字はいつ誰が造ったのか。これにも諸説があるが、ひとつは、伝説上の帝王である黄帝の時代に蒼頡(そうけつ)という人物が鳥獣の足跡を見て、その紋様によってそれぞれを区別できることを悟り、初めて文字を造ったという。

 ともかく、前770〜403年の頃には五経のひとつ『易経』ができていた。前221年、初の統一国家をうちたてた秦の始皇帝は、漢字の書体の統一しようとして、〈小篆(しょうてん)〉という公用文字の制定を図った。しかし、この〈小篆〉は曲線が多くて実用的ではなかった。

 そこで、役所の事務処理には直線を基準とした〈隷書(れいしょ)〉がもちいられた。〈隷書〉は普及したけれど、楷書に転化する間に、字形に混乱が生じて多種乱雑な字体が通用していたらしい。

 それを改めるべく、唐の太宗の時代に、顔師古(がんしこ)は、文字の基準を定めた字様書(文字の筆画の標準を示す書)を著わした。そこでは、〈俗〉〈通〉〈正〉の三体を区別した。

 とまあ、こんなふうに漢字の学問の歴史が詳しく述べられていくので、すべてを理解するにはかなりの忍耐力を要する。

 要約していえば、漢字の学問の歴史は、一貫して辞書を編むことであった。さまざまの時代にさまざまの角度から異なった辞書が編まれてきたが、それらは大きく三種類に分けられる。

 漢字の構造によって分類、配列して、その意味を説いた『説文解字(せつもんかいじ)』『玉篇(ぎょくへん)』などの「字書」がひとつ。漢字音の韻の部分によって分類、配列した『切韻(せついん)』などの「韻書」と、漢字の義、すなわち意味によって分類、配列した『爾雅(じが)』などの「義書」があった。辞書を編む目的は、混乱した漢字を整理することであった。

 後漢の紀元100年に、字書の金字塔『説文解字(せつもんかいじ)』が許慎(きょしん)によって編まれた。ここではじめて部首法による分類が行われ、漢字全体は〈文〉と〈字〉の二類に大別された。

〈文〉とは、「日」「月」「山」のように物の形を象った〈象形文字〉と「上」「下」などの〈指示文字〉のことである。〈字〉は、〈文〉を基礎として造られた組み合わせの文字で、「江」「河」などの〈形声文字〉や、「信」「武」のような二つの〈文〉を合体させ新しい概念を示す〈会意文字〉がこれにあたる。これは驚くべき整理であった。

 五十音順に並べる日本語の辞書ができたのがいつであるかは知らないが、おそらく、配列にはなんの苦労もなかっただろうと推測されるのに比べ、何の因果か、漢字という文字を宿命的に背負わされた中国での格闘は戦後も続く。

 魯迅は「漢字が滅びなければ、中国は必ず亡びる」と断言した。毛沢東も漢字を将来的に廃止する方向にみちびくために、ローマ字の使用を基本とする表音化の運動を推進しようとした。

 そこで、簡略化した略体の文字「簡体字」が、また、漢字に代わる表音文字としてローマ字「垪音(ぴんいん)」が用いられた。しかし、漢字の知識を身につけることを望んだ中国国民は、「簡体字」をえらび、「垪音」は発音を示す符号としてしか使われなかった。

 いま、日本人からみると、あまりに情けない姿にみえる「簡体字」だが、中国でも印刷物は「繁体字(はんたいじ)」が用いられる傾向にあり、認識効率は「繁体字」の方が優れているという意見もあるそうだ。「繁体字」は復活してきているという。

 日本と異なり、表音文字をもたなかった中国を私たちは気の毒に思うけれど、さて、今後の中国語はどんな運命をたどっていくのだろう。
漢字と中国人 文化史をよみとく
『漢字と中国人 文化史をよみとく』
大島正二 著
岩波新書
発行 2003年1月
本体価格 780円



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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