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『イラクとアメリカ』
酒井啓子 著
 今のこの時間(2003年4月4日午後)にも、アメリカ・イギリスによるイランへの攻撃で、多くの人たちが殺傷されている。

 国連の決議をも無視したこの無法、非道な戦争を一日も早く止めさせなければいけない。その理由は、とにかく無実の貧しい人々を、国の都合で殺傷するということは、なんとしても許されないからである。

 反戦の理由としてはそれだけで充分なのかもしれない。しかし、こうなった背景をもっと知りたい。なぜ、サダム・フセインはアメリカの敵になったのか? その疑問は、本書を読むことでいくらかは氷解できる。しかし、もちろんすべてが解るわけではない。

 歴史を動かす上で、個人の力は無視できないが、政治・経済・周辺国との関係・国際情勢それに民族の歴史やそれらに裏打ちされた国民性によるところも大きい。

 アメリカについていえば、ブッシュの好戦的性格とともに、他国を知ろうとせず自国を最も民主的な国だと己惚れているアメリカの国民性によるところもあるだろう。

 イラクには、フセインという独裁者の強烈な個性とともに、それを許す国民のおかれたさまざまの事情があったはずだ。本書は、そのイラク側の事情を簡潔にわかりやすく教えてくれる。

 湾岸地方は、近世以降常に西欧諸国にとって戦略的要地であった。インドを植民地化したイギリスにとっては本国と植民地を結ぶ重要な寄港であり、ロシア(ソ連)にとっては不凍港を求めて南下する政策上不可欠の地だった。油田の発見後は、アメリカも加わって大国の利益がぶつかり合うこととなる。

 1921年、オスマン帝国が解体した後、イギリスがバグダード、バスラ、モースルの3つの行政州を統合して作ったのがイラクであった。大きくは、中部・北部のスンナ派イスラム教徒、北部山岳地帯のクルド民族、南部のシーハ派イスラム教徒に分けられたが、実はより多数の有力部族が乱立する状態であった。

 イギリスの委任統治は1932年まで続き、その後は外来の王を招いて王国となる。1958年、クーデターで王政は打倒され、共和制政権が樹立するが、その後も68年まで頻繁に軍事クーデターを経験した。そして、1968年バアス党が政権を握り、1979年ついにサダム・フセインが第二代大統領の座についた。

 1979年、イラン革命が起こったことで湾岸情勢は大きく変わる。それまでアメリカの忠実な協力者だったイランが反米化したため、従来、反西欧、反帝国主義、親ソのスタンスをとっていたイラクは西側諸国に接近することになる。

 1980年、イスラム革命の波及を恐れたフセインがイラン・イラク戦争を起こすと、「イランを勝たせてはいけない」という共通利害の下にアメリカと結びつく。88年停戦。

 フセインは、クルド族などへの人権侵害にみられる「恐怖の共和国」を築いていた。化学兵器を使用したときも、アメリカは自国の経済政策を優先してこれを黙認した。

 こうしたアメリカとの蜜月状態に乗じて、1990年イランはクウェイトを侵略したが、案に違ってアメリカの怒りを買い、ここに湾岸戦争がはじまった。

 敗北したイラクではあったが、フセイン政権は亡びなかった。戦後の経済性制裁は、イラク国民の食料不足と貧困を生んで評判が悪く、大量破壊兵器の査察もはかどらなかった。アメリカは、ついに国連をも無視してイギリスとともに単独の攻撃を行なうこととなった。

 以上が、実に大雑把なあらましであるが、冷戦構造という尺度で世界をながめる大国と、その対立を自分に有利に利用しようとする小国の権力者の便宜主義がみてとれる。

 著者はあとがきでこう記している。

「フセインの創り上げたものが、『イスラーム』というわれわれにとって『他者』の世界に独特なものでは決してなくて、冷戦構造や独裁体制や国家による管理といった、われわれの慣れ親しんだ『西欧近代のなれの果て』の中から出現したものだ、ということである。『フセイン的なるもの』の持つ危険は、『かれら』の問題ではなく、常に『われわれの社会』に内包された問題として考えていくべきではないだろうか。」
イラクとアメリカ
『イラクとアメリカ』
酒井啓子 著
岩波新書
発行 2002年8月
本体価格 700円



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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