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『フランス映画史の誘惑』
中条省平 著
 アメリカ映画はどうして面白くないのだろうといつも思っている私にとって、本書の題は誘惑的であった。観た映画にふれたところでは「そうかそうか」と納得しながら、フランス映画の通史を教えられる。著者はフランス文学の研究者で、フランス映画にも相当詳しい。映画の起こりからはじめてフランス映画百年史をひとりで綴った。

 フランス映画の誘惑的な魅力とは「禁じられた未知の世界に誘(いざな)われる事への興奮」だと著者は言う。ジャン・ルノワールの「ゲームの規則」(1939年)にこんなセルフがあるそうだ。

「この世界には恐ろしいことがひとつある。それは、すべての人間の言いぶんが正しいということだ」と。このことを認める観察力、理解力の深さ、その事実を「世界でいちばん恐ろしい」ことだと見抜く感受性の鋭さが、フランス映画の豊かさだという。そうした人間理解、世界理解に対する懐の深さがフランス映画にはあると言われて私も納得する。

 映画が生まれたのはフランスである。1895年、リュミエール兄弟によって作られた映画は「シネマトグラフ」といわれた。「工場の出口」「水を撒かれた水撒き人」「列車の到着」など、どこかで見られた方も多いだろう。

 1908年、「フィルム・ダール」という映画のスタイルが生まれる。これは、歴史的に有名な主題に基づいて作られた演劇的な芸術性をもつ映画の流派の総称で、当時の主流になった。こうして、1914年第一次世界大戦が終るまで、フランスは世界最高の映画大国であった。

 サイレント映画史上もっとも重要な映画は、「鉄路の白薔薇」(1922)だ。そこで、「映画の芸術性は、物語(=内容)とはかかわりなく、映画固有の表現技法(=形式)から生まれるのだ」という主張がでてきた。そして、「フラッシュバック」という手法で、蒸気機関車を暴走させる臨場感を見事に演出した。

 一方には、物語性を否定する「アヴァンギャルド」(代表作はブニュエル監督「アンダルシアの犬」(1928))もあったが、それらを経て、トーキーの時代に入った。

 トーキーの最初を飾ったのが、ルネ・クレール監督の「巴里の屋根の下」(1930)であった。「詩的レアリスム」の登場である。1930年代後半は、ジャック・フェデール(「女だけの都」(1935))、ジュリアン・デュヴィヴィエ(「我等の仲間(1936)「望郷」(1937)」、マルセル・カルネ(「霧の波止場」「北ホテル」(1938))、ジャン・ルノワール(「大いなる幻想」(1937))を主としたフランス映画黄金時代が到来する。

「詩的レアリスム」の本質は、「暗さ」の美学であり、「さいごには滅びていく人間の運命が、あいまいな文学的叙情性、高尚な哲学性の衣をまとって、深遠な人生観として賛美され」た。こうしてフランス映画史上の最高傑作といわれるマルセル・カルネ監督「天井桟敷の人々」(1945)が生まれた。

 ヌーヴェル・ヴァーグは1954年、21歳の若者であったフランソワ・トリュフォーの映画評論からはじまった。評論のタイトルは「フランス映画のある種の傾向」で、「詩的レアリスム」といわれた「良質の伝統」を痛烈に批判した。「作家主義」を強烈に主張したのである(「大人は判ってくれない」(1959)、「突然炎のごとく」(1962))。

 ジャン=リュック・ゴダール(「勝手にしやがれ」(1960))、エリック・ロメール、ジャック・リヴェット、クロード・シャブロル(「いとこ同志」(1959))等が、アンドレ・バザンの指導の下、偶像破壊的な評論活動を行ないながら、映画の演出も手がけていった。なかでもルイ・マル監督「死刑台のエレベーター」(1957)が有名だ。

 本書では、ヌーヴェル・ヴァーグ後の映画についての著述は少し舌足らずだ。しかし、私のみるところ、「仕立て屋の恋」(1989)「髪結いの亭主」(1990)のルコントや「トリコロール」3部作(1993-94)のポーランド人監督キェシロフスキーを思い浮かべれば、アメリカ映画とは違った伝統の良さを保って今日に至っていると思う。
フランス映画史の誘惑
『フランス映画史の誘惑』
中条省平 著
集英社新書
発行 2003年1月
本体価格 760円



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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