若田泰の本棚
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『河上肇と左京 「兄弟はどう生きたか」』
河上荘吾著
 画家河上左京は肇の10歳下の弟で、著者はその息子、肇の甥にあたる。マルクス学者として知らぬ人のいない肇と、それほど知られていない左京の兄弟がそれぞれどう生きたかを肉親の目から描いた。河上肇についての研究は盛んだが、身内が語った本ははじめてのものだという。

 河上肇は、京大教授の職を捨てて、共産党の地下活動に入ったことで有名だ。治安維持法違反で逮捕されて下獄、出獄後は実践活動から離れた。「転向」したことを後悔しつつ敗戦を迎え、その翌年、1946年(昭和21)1月亡くなった。

 弟左京も、信頼する兄の影響で、党の活動に協力的であった。依頼された党の文書をドイツにいる国崎定洞に郵送する任務を請け負っていた。残しておけない文書類は、「かまどのない家だったから、火鉢の灰を深くほって、その中に紙くずを入れ、灰をかけてその上で炭火をおこし、煙をださないようにして焼いていました」と語っている。

 二科展に出品するほどの水彩画家であったが、兄の下獄をきっかけに母のめんどうをみるために実家のある岩国に引越し、中央画壇から遠ざかることになった。田舎の地では、「非国民」の家と非難されながらの生活ではあったが、終生、「兄貴は、おれの太陽だ」と敬愛しつづけた。

 遅くしてマルクス主義にたどりついた肇の軌跡が興味深い。「たどりつきふりかへりみればやまかはをこえてはこえてきつるものかな」と詠ったのが、1932年(昭和7)、非合法の活動に入った53歳のときである。

 それまでも、常軌を逸した突発的行動に訴えたことが何度かあった。1901年(明治34)、22歳のとき、足尾銅山鉱毒事件の罹災民救援を訴える演説会で、感動した肇は、その場で着ていた外套と、はおり、えりまきを脱いで寄付し、その翌日あらためて行李に衣類12点をつめ、救済会の事務所に送り届けた。

 また、26歳のとき、突然、「無我庵」に入り宗教運動に加わったが、2ヶ月でこの庵を飛び出す。いずれも、真理を追い求めるに一途な性格であることがみてとれる。

 1923年(大正12)44歳のとき「資本主義経済学の史的考察」を書いて、櫛田民蔵から厳しく批判される。「人道主義の立場で、唯物史観の立場に立っていない」ということであった。肇は、それを素直に聞き入れる。

 1929年(昭和4)コミンテルンなどの反対を知らずに労農党を結成(その7年後コミンテルンは「労農政党の結成を否定した方針は誤りだった」と訂正する)、翌年1月の衆議院議員選挙に京都1区から立候補し落選した。

「山宣のようにたたかうことは出来なくても、山宣のようにたおれることは出来る」 右翼テロに倒れた山本宣治の遺志をうけつごうとしたのだ。「32年テーゼ」の翻訳を担った後、大学を辞す。そして、1932年8月12日、非合法の活動に入った直後、逮捕される。

 逮捕後その信念は揺らぐ。「獄中独語」では、「マルクス主義を信奉する学者としてとどまるだろう」としていたが、1ヶ月後には「上申書」を提出し、「マルクス学者としての生涯も断絶する」と書いた。

 妻秀に叱咤され、「純理論的研究を維持する」といったんは決心したものの、その10日後「マルクスについては宣伝を目的とするものも純理論的なものも一切書かない。完全にマルクス主義と絶縁する」と書いてしまった。

 1934年(昭和9)、恩赦で懲役5年の刑の四分の一が減刑されて1937年(昭和12)出獄。真摯なるがゆえに、出獄を望んで右往左往する姿が実に人間的である。

 この経歴を恥とみるか、瑕疵(かし)とみるか、どうみるか。
河上肇と左京 「兄弟はどう生きたか」
『河上肇と左京 「兄弟はどう生きたか」』
河上荘吾著
かもがわ出版
発行 2002年10月 本体価格 1800円



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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