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『信州異端の近代女性たち』
東栄蔵 著
 本書は、閉塞した時代を信州に生きた7人の女性たちの軌跡を描いたものである。

 その一人が伊藤千代子だ。「まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年(いつとせ)がほどに」「こころざしつつたふれし少女(をとめ)よ新しき光の中におきて思はむ」「高き世をただめざす少女等ここに見れば伊藤千代子がことぞかなしき」

 これらは、1935年(昭10)歌誌『アララギ』の11月号に、土屋文明が「某日某学園にて」と題して発表した短歌である。文明は、伊藤千代子が在学した諏訪高等女学校の校長をしていた。この歌が詠まれたとき、千代子の獄死から6年を経ていた。

 母の夭折と父の家出という困難な家庭環境のもとで、養祖父母から祖父母の手を行き来しつつ育てられ、内向的とみられていた千代子だが、信州白樺教育(大正自由主義教育)の風土や担任教師の影響もあり、東京女子大に進んだころには、マルクス主義学習会のリーダーとしての役割を務めていた。

 後日、聞き取りのため訪ねた著者に、夫・浅野晃が卒業を目前にした妻の思い出を語った。

 祖父母から送られてきた学費を前にして夫が言う。「おい、その金おれにくれないか。山懸(筆者註…1928年(昭3)総選挙に北海道から立候補した山本懸蔵)にやるんだ。これだけあればすぐに(筆者註…選挙遊説に)出発させられる」。千代子は泣きながら「よくわかったから使ってくれ」と金を差し出して卒業をあきらめたと。

 党への献身と肉親への愛情の間で揺れた千代子が、党への献身を選んだ場面だ。みずからを党と夫に添わせようという健気さが溢れたエピソードではある。

 千代子は、1928年3月15日治安維持法違反の容疑で逮捕された。同じ頃、逮捕された夫の転向に動揺した千代子は精神に異常をきたし、移された松沢病院で肺炎のため死去、満24歳2ヶ月であった。

 松沢病院で千代子につけられた病名は「拘禁精神病」であった。同じ頃、松沢病院で診療に当っていた精神科医秋元波留夫(現在96歳)は語っている。「これは、単なる拘禁が原因ではなく、苛酷な取り調べと、良心の囚人としての精神的葛藤でおこる心因反応で、治安維持法は人を狂気に追いこむ悪法だと思ったものです。」

 私は、千代子の「拘禁精神病」に思いを馳せるたびに心が痛む。防ぐ手はなかったのか?天皇制絶対主義の暴力に第一の原因があり、同志に絶望感を与えた転向者にも原因があることは確かだが、精神病になるまでして守らなければならなかった思想とは何なのか。

 いったい自己の思想を変えることが精神障害につながるものだろうか。むしろ、確固とした自己の思想を持ち得ていない時期に、信じていた「教義」が外からの圧力となって作用したのではないか。その「教義」はそれほど価値のあるものだったのか。

 夫・浅野晃は転向後、「日本浪漫派」に加担して国家主義に走り、戦後は大学教授として国文学を講じ、「読売文学賞」も受けた。山本懸蔵は、野坂参三の密告でスターリンによって消されたが、その山本懸蔵は、やはり粛清された医師・国崎定洞を売った張本人だという説もある。

 もうひとり、戦時下の政治や社会への疑問を投げかけて苦しみつつ夭逝した千野敏子も忘れがたい。

 「私は戦争をあさましく思う世の反逆者である。実際私は時々こんな穏健でない自分の思想をどうすればよいのかと思うのである。」「すべて物を考えるのに国家を中心としてでなく、人間を中心として考えなければならぬ。」「真実は悲しきかな。それは本質的にはすべてに愛され、うけいれられるべきものでありながら、しかも終始すべてに反逆視される宿命を持っている。」

 これは、1941年(昭16)諏訪高等女学校1年生から書き綴られた私的メモ『真実のノート』の一部である。この時代、16歳でこんな見方をしていた女性がいたことに驚かされる。1946年(昭21)敗戦の翌年、21歳にて死亡。その後、『真実のノート』は旧師によって編集され『葦折れぬ』と題して出版された。

 暗黒の時代に、苦しみつつ誠実に生きた女性たちから今日私たちが学ぶべきものは多い。
信州異端の近代女性たち
『信州異端の近代女性たち』
東栄蔵 著
信濃毎日新聞社
発行 2002年9月 本体価格 1,700円



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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