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『ソ連=党が所有した国家』
下斗米伸夫 著
 ソ連崩壊後いくつかの資料が公表され、専門家の間では、ソ連邦とソ連共産党内部の研究が進んだ。本書もその一つで、1917年のロシア革命から1991年にソ連邦が消滅するまでの政治史を概説したものである。その切り口として、レーニンからスターリンの時代をナンバー2で通した元首相・外相モロトフに焦点をあてている。

 モロトフは、1906年にロシア社会民主労働党に入党、レーニンの側近であり、スターリンの右腕として1920年代末からの工業化や農業集団化を指導し、30年代の大粛清、30年代末からの戦争と外交に中心的役割を果たした。

 だが、1957年、フルシチョフの時代にモンゴル大使に左遷、62年に党を除名された。チェルネンコ時代の84年に奇跡的に復党し、86年ゴルバチョフの時代に96歳で亡くなった。

 本書で、印象深かったことを2つ紹介しよう。

 1917年に生じたロシア革命(2月革命)は、第一次世界大戦という総力戦の試練に耐えられなかった帝政ロシアに対して、女性労働者のパンの要求からはじまった。すなわち、ボリシェビキ党の活動とは無関係のところから始まったものであった。

 臨時革命政府は、ソビエト権力とか社会主義革命路線を意図したものではなかった。亡命先のスイスから帰国したレーニンは、社会民主労働党内の合意を破って、未知の革命的路線を推し進めた(10月革命)。こうして、大部分が農民で、労働者のほとんどいない国で、「プロレタリア権力」が生じた。「存在しない階級の前衛党」が権力を握った。

 ボリシェビキ党は権力奪取を正当化するために、ソビエトを利用したにすぎなかった。権力を取ったのは党組織であって、ソビエトそのものではなかった。農民にとってボリシェビキとは、ツァーリ(皇帝)を追放し土地を農民に与えた勢力であったが、コミュニストとは、穀物を取り上げコサック追放を行う勢力であると理解された。

 ふたつめ、大粛清は、スターリンが気ままに鉈(なた)を振るったのではなく、大部分は政治局を中心とした官僚機構によって手続きを踏んで行われていた。党と国家の複雑化した蝶番にあたるのがアパラチクつまり党官僚であり、なかでも政治問題を処理する最高の常設決定機関となったのが政治局であり、その補助機関である書記局に権力が集中した。

 それを作ったのがモロトフでありスターリンであった。1930年代以後、農業集団化は大量の飢餓を生んだ。農業政策の失敗でスターリンと距離をとりはじめた党・体制との闘争が大粛清であった。党内分派、グループは、1921年に「プロレタリア独裁は共産党を通じて以外はあり得ない」と断定したレーニンによりすでに禁止されており、これが粛清の理由に利用された。

 モロトフの軌跡は、「国家の死滅を目指したはずの権力が20世紀最大の国家機構へと転化していく機制、そしてそれを共産党が支配し動かすというソ連社会主義そのものの歴史である」と著者は記す。モロトフは、歴史の表舞台で目立つ活動もしなかったし、トロツキーやブハーリンのように批判の論陣を展開したわけでもなかった。一貫して、党官僚制と国家官僚制のつなぎ目の立場にいて生き延びた。

 本書は、膨大な資料をコンパクトにまとめており、その労に敬意を払いたいけれど、決して分かりやすい本ではない。それは、私の基礎知識のなさ、理解力のなさによるもので、著者のせいにはしたくないが、やはりどうして分かりにくいのかについて考えてしまう。

 たとえば、モロトフは保守派ということらしいが、保守派とは何なのか、どの時代の保守派なのか、保守とは何を保守するのか。また、レーニンともスターリンとも微妙な関係の時期もあったモロトフも、離合集散しあう他の政治家たちも、彼らを貫いていた信条が何なのかがまったく分からない。それが、この本の分かりにくさなのだ。

 つまり、難解さの原因は、この本の責任というよりも、登場人物たちの責任だったのだと思う。
ソ連=党が所有した国家
『ソ連=党が所有した国家』
下斗米伸夫 著
講談社
発行 2002年9月 本体価格 1,500円



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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