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『北のサラムたち 日本人ジャーナリストが見た、北朝鮮難民の“真実”』
石丸次郎 著
 北朝鮮拉致被害者の話題にかき消されてもう忘れかけているけれど、脱北者の瀋陽日本総領事館への駆け込み事件があったのは、今年5月8日のことである。門前で(実は館内で)中国政府に逮捕された人たちは「北朝鮮に送り返されたら殺される」といっていた。

 北朝鮮とはどんな国なのか。この計画にもかかわったジャーナリストである著者は、豆満江で境された朝中国境周辺に何度も足を運び、脱北者や国境周辺に暮らす人たちと接しながら、ベールにおおわれた北朝鮮の実態をつかもうと取材を続けた。本書はその生々しい記録である。

 北朝鮮の現実は、私たちの想像を越えたものであった。闇市場や外国人の多い「南山ホテル」前で目をキョロつかせて食い物を漁る子供たち、越境した中国東北部での人身売買に近い農家への「嫁入り」、日常化している売春や不法入国のため表立たない強姦事件、「商品」にならない男性は、難民取り締まりにおびえて家の中で粗大ゴミになるしかない。

 著者の知り合いだった中国東北部の朝鮮族中国人の男は、「やっと結婚できた」とうれしそうに便りをよこした。相手は、脱北者の女性だった。著者が二人に会ったときは、仲睦ましくみえたが、やがて、いても立ってみられなくなった新婦は「北朝鮮から子供を連れ出してくる」と言い残して、北朝鮮に向かったということを後に聞く。妻は子供を亡夫の両親に預けたまま、越境してきていたのだった。妻がその後どうなったかはわからない。

 別の女性は、脱北して朝鮮族中国人と結婚したが、後から転がり込んできた父が同居するようになってから、事情が一変する。その父は、実は40年前、高校1年生のときに北朝鮮に帰国した元在日朝鮮人だったのだ。日本では、朝鮮人ということを隠して生活していたから、友人が見送りに来なかったことでかえってほっとしたという。

 しかし、北朝鮮での35年間は、「北朝鮮にはなんでもある」という朝鮮総連の宣伝文句とは違って、牧場に配置され、羊や山羊を追っての苦しい生活だった。そして、5年前、娘の後を追って、豆満江を越えたのだった。2度目の脱北者である父への捜索の手は厳しく、家庭内のいさかいも絶えず、やがて父は行方不明となる。そして、女性も夫と子供を残したまま、行方知れずとなる。

 悲惨な事実が次々と紹介されるが、より悲しいことは、北朝鮮の人たちは、自己中心的で、視野狭窄、嘘つきであるといわれることだ。支援の人たちからも、もういいかげんにしろという声も出てくるのだという。しかし、著者は言う。「国が変だから、人間がおかしくなる」のだと。

 暗澹たる気持ちにさせられるルポルタージュだが、著者は一縷の光を見出している。北朝鮮の人々の間で、改革への運動が芽生えはじめているのではないかというのである。「あなたがいなければ祖国もない」というプロパガンダ歌謡は、「金正日将軍、あなたがいなければ、われわれは生きられる。あなたがいなければ祖国も生きられる」と替え歌で歌われているという。

 1999年の南朝鮮傀儡=韓国と中国朝鮮族の仕業とする北朝鮮政府の声明は、反政府運動が確かに起こりはじめている表われだとする。北朝鮮潜入撮影に成功した朝鮮人もいた。また、2002年3月14日、北京のスペイン大使館に駆け込んだ25人は、こんな声明を残していた。「座して運命に流されるよりは、身の危険を冒してもあえて自由のために行動する」と。こうした人たちのうねりが、北朝鮮を内部から変える力になることを望みたい。

 なお、「サラム」とは「ひと」という意味の朝鮮語だそうだ。北朝鮮で使われる「人民」という無機質な呼称に対置させて、あえて使った著者の祈りが伝わってくる。
北のサラムたち
『北のサラムたち 日本人ジャーナリストが見た、北朝鮮難民の“真実”』
石丸次郎 著
インフォバーン
発行 2002年8月 本体価格 1500円



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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