若田泰の本棚
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『わが人生の案内人』
澤地久枝 著
 著者は、雑誌編集記者から五味川純平の資料助手を経て文筆業に専念し、『妻たちの二・二六事件』や『昭和史のおんな』正・続を著わした。戦争や時代を見つめる確かな目で、人間の深い心を描いてきた。そんな著者が、人生を学ばせてもらったという先達たち23人について、22の章にわけて書き記した。なかでも印象的ないくつかについて紹介しよう。

 石堂清倫(きよとも)は、五味川の知人であったことから著者も知るようになる。1979年、中野重治の告別式で石堂は弔辞を読む。「思えばわれわれの時代は苦難の連続でしたが、それはわれわれが社会主義者であったからというよりも、その社会主義がついに国民の外部にとどまり、真の社会主義でなかったことによるものと思われました。」

 その石堂の終生のテーマは、「転向」は終生消せない原罪のようなものなのかどうかということであった。著者が石堂を敬愛したのは、「志は鋼(はがね)のようにかたくても、感性のきわめて柔軟なところに魅了されたから」であった。

 山本周五郎については、「若さの危うさと無謀」について思いをめぐらせる。戦争賛美や時局便乗の時代に、周五郎は筆を折ることなく独自の作品を書いていた。『日本婦道記』もそのひとつで、戦後も読み継がれていた。そこで描かれるのは、男社会のなかで陰になって支える健気で美しい女性たちであった。

 何でも言える父のような存在に思っていた著者は、周五郎に「物語として読むのはいいけれど、これを女のあるべき姿として強いられたら、わたしはこばみたい」というような内容の手紙を書いた。悪い予感は当たり、以後、原稿はもらえなくなったけれど、著者は、若いときの始末の悪い「正直さ」を苦く反省し、周五郎への尊敬の念は失っていない。

 もうひとつ心に残るのは、小林多喜二が苦界から救い出して結婚を申し込んだという田口タキについてである。住所を突止めた著者は「会いたい」と申し出る。老齢のタキから手紙が届く。

「今、(夫が・・筆者注)亡くなり、無抵抗な人になられて見ますと、とても昔の恋人の話を他人と平気で話すと云うことが出来ないような私の今の心境です。ただただ二人の冥福を朝夕祈っている現在です。私は学校もろくに出ず、何の教養もない事を恥ずかしく、それに母と小さい弟妹等のこともあり、小林との結婚をお断りしましたような訳で、とても貴女様のようなお偉い方とお会いしてもお話するなぞ、若し小林の名を汚すようなことがありましてもいけませんし、申訳ございませんがお断りさせていただきます。」

 著者は、「自分のもの書きとしての業の深さ」を思い、「愛した人がむごたらしい遺体となった記憶を終生忘れられずにいる女性を、わたしはなんとしつこく追いかけたのだろう。」と反省する。そして、「恨み言、繰り言には無縁。背負った過去に動じない毅然とした姿勢」に「凛呼(りんこ)として」という言葉を思い浮かべる。

 また、意外な事実を向田邦子の章で知った。先の書評『向田邦子の恋文』(新潮社)でふれたN氏の死後しばらくたって、別れた妻と娘がガス心中を図ったというのだ。N氏の母親から最初によばれたのが邦子で、窓に貼られたテープを必死で剥いだが間に合わなかったと邦子から聞いたという。

 著者は、「病んでいる上に異性問題で傷ついていた」自分を慰めようとしてそんな話しをしたのだろうと語る。著者と邦子のそれぞれのおもいやりが美しい。それにしても、私たちが知った頃の向田邦子は、愛したN氏一人ではなく、三人の死の負担を背負い込んで筆を走らせていたのだ。

 本書をしみじみとした感じで読み終えられるのも、著者の人生への誠実で堅実な姿勢からにじみ出るものが伝わってくるからだろうと思う。
わが人生の案内人
『わが人生の案内人』
澤地久枝 著
文春新書
発行 2002年7月 本体価格 700円



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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