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『罪――届かなかった十五通の遺書』
毎日新聞東京本社社会部編
 たしか、有馬頼義の小説に「遺書配達人」というのがあった。託された遺書をもって、戦友の親や妻・恋人を訪ね歩くエピソードを連ねたもので、映画化もされた(今井正監督・渥美清主演「あヽ声なき友」(1972))。本書でも、同じように、三人の毎日新聞記者が配達の旅にでる。記者たちは皆、戦争を知らないで育った30歳代ではあったが、戦後56年ぶりに日の目を見た遺書の語る力に突き動かされたのだ。

 その遺書を書いた15人は、ベトナム・サイゴン(現ホーチミン市)で処刑されたBC級戦犯で、遺書はワシントン公文書館に埋もれていたGHQの資料の中にあった。当時、GHQは、遺書に書かれてあるような、日本の戦争遂行は正当であったとする感情や自分が死刑になるのは公平さを欠くといった主張が、よい影響を与えないと判断し、遺族には届けずに没収という処置をとっていたのだった。

 インドシナは、フランスの植民地支配下にあったが、ナチスに屈した仏・ビシー政権と日本との合意で、仏領下でありながら日本軍が駐留するという特殊な地域になっていた。しかし、1944年6月連合軍がノルマンディー上陸作戦に成功し、ドゴールがイギリスでフランス共和国臨時政府の樹立を宣言した頃より、日仏関係は急速に緊張の度を増していった。

 1945年3月9日、日本軍は、反日レジスタンス組織を抑えるための軍事命令「明号作戦」を実施し、日仏双方の軍隊の衝突が繰り返されるようになった。戦後、サイゴンでおこなわれた裁判は、敗戦までの半年間に行われた日本軍の行動が、捕虜虐待などの「戦争犯罪」、大量虐殺などの「人道に対する罪」に相当するとして問うたものであった。

 最初の訪問者、横溝道之助曹長は、フランス軍の要人や市民約百人を検挙、収監した際、留置場での劣悪な環境での取り調べの拷問で、多数を衰弱させ、数名を死亡させたとして死刑に処せられていた。妻宛の遺書を持って、記者が訪ねた先は横浜市内、老いた妻は横溝姓を名乗って、言葉を失った夫と暮らしていた。

 夫は筆談で言う。「道之助氏は私のサイゴンの憲兵時代の先輩でした。」なんと、妻は、戦後、遺品を預かって処刑のいきさつを話しに訪れて来ていた戦友と結婚していたのだ。その夫は、記者の何度目かの訪問に際して意を決して紙に書いてくれる。「私はベトナム人スパイの首を切った」と。罪には問われなかったが、みずからの加害者体験を言い残しておきたい老いた元軍人の姿がそこにあった。

 東京裁判で、死刑判決を受けたA級戦犯は7名、各地の侵略地で死刑に処せられたBC級戦犯は合わせて984名である。裁判は公平に行なわれたのかという問題がひとつにはある。もう一つは、戦後社会でも、BC級戦犯は、「名誉の戦死者」とは区別され、差別されてきたことである。遺族は、何故、戦争が終ってから死ななければならないのかという疑問とともに、なぜ、戦犯という汚名を着せられなければならないのかという、二重の解せぬ思いを抱いてきた。

 それにしても、遺書はほとんどが、愛国心を誇り、天皇制日本をたたえている。「従容として喜んで死に就いて逝きます」「名誉ある家門を汚したること深く詫び」「此の死こそ戦場に於ける戦死と何等気持に変り有りません」。それぞれ、異なっているようでも、皇国思想を信じたうえでの、自分を納得させたい苦肉の論理が見てとれる。

 子供世代の遺族の中には、「遺書には肉親への愛情がにじんではいるが、それでも複雑な思いがする」という人もいた。やはり、憲兵としての拷問虐待の事実はあったのだろうという推測からである。一人の人間を同時に、被害者と加害者にしてしまう戦争というものの恐ろしさ愚かさにあらためて気付かされる一冊である。
罪――届かなかった十五通の遺書
『罪――届かなかった十五通の遺書』
毎日新聞東京本社社会部編
河出書房新社
発行 2002年7月 本体価格 1200円



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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