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『生物戦部隊731 アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪』
西里扶甬子 著
 8月28日の新聞は、731部隊が細菌戦を実施したことが、日本の裁判史上初めて認められたと報道した。中国侵略戦争下の1940〜42年に、日本軍による細菌戦の犠牲になった親族たちが、日本政府に損害賠償と謝罪を求めて争っていた東京地裁においての判決であった。しかし、日本の国家責任については決着済みとして認めなかった。

 著者は海外メディアの日本取材のコーディネーター、インタビュアー、プロデューサーで、仕事のかたわらに取材・調査した証言を中心に、細菌戦の開発・実験・実践の実態と、戦後の戦犯免罪取り引きについてまとめた。本書は、731部隊にまつわる事実と謎をわかりやすく1冊にまとめて呈示してくれた有り難い1冊である。

 1980年代ベストセラーとなった森村誠一『悪魔の飽食』では、悪魔となった医師たちが人体実験という「研究」に埋没する姿が強調されたが、この施設は、決して、医学研究を第一の目的として設けられたものではなく、細菌兵器開発を目的とした軍事施設であったのだ。その「成果」は、当然中国各地での細菌爆弾の投下という実験に実を結んでいた。細菌兵器による中国での被害の実態については年々その大きさが中国側の調査によって明らかになってきている。

 しかし、731部隊についてはまだまだ不明の点が多い。ネットワークをつくっていた南京1644栄部隊など他3ヶ所の施設の実態については、まったくといっていいほど分かっていない。実験の内容はもちろん、細菌兵器使用と被害の全貌、それに戦後のアメリカとの免責とりひきの経過についても不十分である。それはひとえに、過去の戦争犯罪を隠蔽しようという日本政府、ならびに研究成果を独占することで日本と共犯の関係になってしまったアメリカ政府が事実究明に消極的であるからにほかならない。

 著者のような奇特なジャーナリストや研究者が、良心的な証言者を探し求め、数少ない資料に目を通しつつ調査して、事実の究明に近づくしか方法がないのである。こうした中で、証言者は、元戦友や右翼のいやがらせを受け、侵略戦争と認めない歴史教科書が大手を振り、同じ根をもった薬害という犯罪が繰り返され、犯罪の一翼を担った人たちは、力強い防御の壁に守られて、沈黙したまま天寿を全うしつつあるのである。戦争犯罪に荷担した医学界も、政府の固いガードの中に安住して、みずからその戦争責任を明らかにする姿勢はみられない。

 わたしは、昨年、所属する日本病理学会総会で、病理学会の戦争責任について問題を投げかける発表を行なった。そんな関わりもあり、つい熱が入って本書の中身にふれぬまま、紙面を費やしてしまった。

 さいごに、本書にも書かれていて病理学会にもまつわる事実をひとつ紹介しよう。1944年の日本病理学会誌に元731部隊員による論文「炎症(殊にペスト)に関する研究」が掲載されている。「昭和15年 秋、満州国農安地区ペスト流行に際して、発表者中1名(石川)はペスト屍57体剖検を行った。之は体数に於て世界記録である・・」とある。この研究は、731部隊自らが開発し製造した細菌兵器で死亡させた被害者の遺体を研究の材料に使ったものであった。その57体のイニシャル入りの病理解剖レポートが、アメリカ陸軍実験基地にあることを、1992年NHKテレビが放映した。

 一方、その原本とみられる実名入りの報告書が、2000年に慶応大医学部図書室で発見された。これは、731部隊の研究がそのままアメリカの手に渡っていたことを意味する。そしてまた、57人の患者番号1番のK.F.は、藤原君香という8歳の女の子であることが判明した。細菌兵器は同族の子どもまでをも巻き添えにして、殺していたのだ。

 731部隊の問題は、政府、医学界のみならず日本国民に残された大きな課題なのである。
生物戦部隊731
『生物戦部隊731 アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪』
西里扶甬子 著
草の根出版会
発行 2002年5月 本体価格 2800円



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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