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『なぜ書きつづけてきたか、なぜ沈黙してきたか』
金石範、金時鐘 文京洙 著
 2人の在日朝鮮人作家が、済州島四・三事件を中心に語り明かす。済州島四・三事件とは、1948年4月3日、韓国の南端済州島の左派勢力と住民が島内の警察署を襲撃した事件に端を発し、その後、軍や警察、右翼の襲撃を執拗に受けて、6年半の間に島民3万人余りが生命を奪われた事件である(本欄『順伊おばさん』参照)。

 事件を日本で知った金石範は、「なぜそこにいなかったのか」にこだわり、『鴉の死』から『火山島』に至るまで、40年間にわたってこの事件の意味を小説で問い続けてきた。

 一方、金時鐘は、当時現地で事件をつぶさに見、闘いを体験したのであったが、中途、親や友人を捨てて日本へ渡った後ろめたさから、その後、事件については一切語らなかった。

 本書では、「祖国への『不在』と『離脱』が、悔悟と自責の響きのなかで、その意味を求めて繰り返し問い返される。」語られる言葉が、単なる正義感や歴史観からでなく、2人がそれぞれ生涯持ち続けてきた、全身から絞り出される無念、悔悟、自責の情念からであることに圧倒される。

 書かなかった時鐘は、「記憶というのが、ひと条(すじ)の糸のようなものだったら引きずりだしてまきとっていけるのにね、思いおこそうとするとかたまりのまま、わっと押しあがってくるから、言葉にならない」と語っている。

 日本から解放された1945年の12月に、米英ソ三国外相会議で、朝鮮半島を米英中ソ四国で当面「信託統治」することを決めた。それは統一朝鮮実現の一縷ののぞみであった。しかし、米ソ冷戦の始まりとともに、その後は複雑な成り行きを示す。朝鮮内部にはすでに、民主的な統一国家をめざす人民委員会が存在していた。それを共産化の動きとみなしたアメリカ軍は、日本軍に協力したことでなりをひそめていた親日派を呼び戻して、みずからの権力強化に利用した。

 一方、「北」ではソ連のバックアップで民主国家建設の動きが進んでいた。「北」における土地の解放は新しい理想国家のはじまりのようにも見えた。アメリカは「反託」に変更して「南」単独での選挙を実施した。選挙をボイコットして島ぐるみ共産主義化しているとみなされた済州島では、同じ民族の、しかもひとつの孤島の共同体内部で、殺戮や暴行が無制限に繰り返されることとなった。

 これらの悲劇がアメリカの戦後政策によってひきおこされたことは確かだろう。朝鮮半島において、アメリカは、戦中の親日派を利用することによって、対ソに備えようとした。四・三事件は、「共産暴動」という宣伝で「南」に反共思想を植え付けるためのスケープゴートであったともいえる。

 共通した思いを抱く2人であったが、わずかに認識の違いがあった。時鐘は、事件の引き金となった四・三事件には、済州島を民主基地にしようという「北」の思惑もあったのではないかというのである。「信託統治」を主張したソ連も実は北朝鮮での親ソ政権の樹立を第1に考えていたのではないか。当時南労党党員であった時鐘は、そう感じるがゆえに、なおさら自責の念にかられ、筆を持つことができなかったのだ。

 日本に対しては、天皇制を維持することによって戦犯を戦後の対ソ戦略に利用した。日本は、従順に従ったために、内乱は起こらなかったが、朝鮮では、アメリカの意図に従順に従わぬほどに民意が成熟していたために、自主的な抵抗運動が起こった。ここには、アメリカの東アジア戦略における大きな相違とともに共通したものが見てとれる。

 済州島四・三事件は、日本が戦後復興をひた走っていたときのことであり、直接日本軍国主義は関わってはいない。しかし、この事件は、アメリカのアジア政策とともに日本の植民地支配の残滓によりおこされたものであった。日本の近現代史を振り返るときに、国内だけでなく、近隣アジアをも含めて共に考えていく視点の不可欠なことを思う。
なぜ書きつづけてきたか、なぜ沈黙してきたか
『なぜ書きつづけてきたか、なぜ沈黙してきたか』
金石範、金時鐘 文京洙 著
平凡社
本体価格 2400円
発行 2001年11月



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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