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『買売春と日本文学』
岡野幸江/長谷川啓/渡邊澄子著
 私は常日頃から、セックスについての考え方ほど各人まちまちのものはないのではないかと思っている。いやしくも文化国家を形成している社会においてでもである。

 しかも、この問題は公に論じられることが少ないから、それぞれが、自分の考えをふつうだと思っていて振り返る機会が少ない。また、多様すぎるさまざまの考え方を理解しようとするから、相手に対して「それは間違ったセックス観である」というような批判はなかなか言い難いものである。

 それでは、いったい文学ではこの問題をどのように取り上げてきたのか。セックス全般についてでは、意味が広すぎるから、買売春ということに絞ってみてみよう。というのが、私が本書を手にとってみた理由である。

 期待は部分的にはかなえられる。編集者の意図は、自己の自由意志によって性を売るという最近の現象にみられるように、新しい段階に入ったらしい買売春を、過去の文学作品から、批判的に検証しようということのようだ。筆を揮う34人はほとんどが女性で、ジェンダーについて一家言を有する人たちがまじる。当然、買売春には批判的であるが、微妙なニュアンスはそれぞれによって違いがある。

 私が興味深く思ったのは、近代文学の名作といわれる作品を残した男性作家たちの、古いセックス観であり、時代の反映もあって本人はふつうだと思っているその古い能天気な思想性である。「古い」というのは、女性蔑視、職業差別、男の性的衝動の無条件の肯定といった男のわがままであり、時代の常識というものにあぐらをかいた傲慢さである。

 こうして能天気な一流の作家たちは、本書で一刀両断に切られる。森鴎外の唱えた廃娼論は、「完全に廃娼することの不可能性を前提とし、ある種の売春は禁止し、ある種の売春は厳格に管理することによって、公衆衛生的な安寧を確保する」ということであった。事実、鴎外は、ドイツ留学中には「舞姫」と関係し、最初の結婚の失敗後は母親の斡旋した妾を囲っていた。

 明星派の旗手とされた吉井勇は、正業につけなかった没落華族の子弟で、遊郭にたむろし、「金銭の授受による商品の消費という冷酷な関係を完全に隠蔽し、むしろその商品的身体に、目も眩むような刺激的で魅惑的な光輝をまとわせ、歌として成立せしめた」のである。

 明治の自然主義作家たちは、みずからの体験を赤裸々に描いて封建的家制度への批判を試みたが、買春を恥じる意識は、これぽっちも持ち合わせてはいなかった。フェミニストを自称して女性を「仰ぎ見る」作品を多く書いた谷崎潤一郎の「女性崇拝」は、女性を客体化、モノ化していることの裏返しで、永井荷風の『墨東綺譚』や川端康成の作品が、娼婦を見下した上に成り立っているのは明らかである。

 従来の文学評論において、作者の「女性観」が問題にされることは少なかった。しかし、そのことは、買売春の黙認に役立ってきたということはなかったろうか。

 後に加害者責任を自覚した兵士でも、強姦についてはその罪をなかなか認識できないといわれる。日本観光客の買春ツアーが国際的非難を浴び、援助交際という買売春が現代的問題となっているおり、私たちはそれがなぜいけないのかを、声を大きくして語っていかなければならないだろう。金銭による権利の束縛、特に女性ということでの二重の差別は、決して許されることではない。
買売春と日本文学
『買売春と日本文学』
岡野幸江/長谷川啓/渡邊澄子著
東京堂出版
本体価格 2500円
発行 2002年2月



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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