若田泰の本棚
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『石ころだって役に立つ』
関川夏央著
 本書は、著者が40歳代の終わり近くに、若いころを回想して書いたエッセイ集である。主として1960年代から70年代にかけてのちょうど高度成長期と呼ばれたころ、少年期から青年期にかかる時代を、本や映画・物語に託して描いた。

 本や物語を取り上げて、その筋運びに自らの生活や思いを同時進行させて描くという手法は、かなり難しい技術を要するものだろうが、著者の文章力の冴えは、読後に余韻を残す。嫌な言葉だが「団塊の世代」といわれたわたしたち同世代にとって、自己と時代背景を振り返る意味でも、文句なしに面白い書物だ。

 本書は、8つの章から成り立っている。時代を彩る作品は、映画ではフェデリコ・フェリーニ監督『道』、篠田正浩監督『乾いた花』(石原慎太郎原作)、書物では武者小路実篤『友情』、ジュール・ルナアル『にんじん』、サルトル『嘔吐』などなど。それぞれにまつわって、さまざまな記憶の残る未熟でつたなかった時代を、著者はほろ苦く回想している。

 表題となっているひとつの章「石ころだって役に立つ」は、将来の見通しのたたない時期に愛し合った著者自身とみられる私と、彼女とのある夜の記憶である。ここで書かれているのは、同棲していた彼女との破局が近いことをうかがわせる生活だ。そして、大部分が、二人のとりかわす会話から成っている。

 一緒にフェデリコ・フェリーニのイタリア映画『道』を観た帰り道、自転車を押しながら歩く25歳の私に、前を歩く彼女は後ろを振り向きざま、からんだ言葉をつぎつぎとなげかける。「それでも女かい、まるでアザミだ、といってみて」「つぎはね、料理はできるのかって聞いて」「歌や踊りはできるのか、と聞いて」「男と寝るのが好きかって」 それらの問いかけに私はいちいち復唱させられる。それらはみんな、今観てきた映画『道』のセリフであった。

 映画『道』は、鎖切りの旅芸人である野獣のような男ザンパノに、奴隷のようにあつかわれている哀れな女性ジェルソミーナの物語である。

 ジェルソミーナは、巡業中のサーカス一座にいた詩人でもある芸人ベイスハートと知り合い親しくなる。しかし、ベイスハートは怒り狂ったザンパノに殺され、そのショックで正気を失ったジェルソミーナを、ザンパノはいよいよ足手まといに思って捨てる。「石ころだって役に立つ」は、ジェルソミーナに同情した神のような芸人ベイスハートが、生前に、やはり神のようなジェルソミーナに語った言葉である。

 彼女は、ザンパノがジェルソミーナに感じたと同じ思いを、私が抱きはじめていることを鋭く嗅ぎとっていたのだ。彼女はその直後、自分が妊娠していることを告げる。宿した子は日の目を見ることなく、二人の関係はまもなく終焉をむかえる。

 著者に共感をおぼえるのは、同じような本や映画・物語を見て同時代を過ごしたというだけではないだろう。著者の「どんな本やどんな物語が自分をつくったのか」という関心そのものが、わたしたち同世代に固有のものなのかもしれない。つまり、わたしたちが青少年期をおくった高度成長期とよばれた時代が、戦前からの「教養主義」の空気に満たされていたということならば、文化的には「戦前」は1970年代半ばまで継続していたのかもしれないとわたしも思う。
石ころだって役に立つ
『石ころだって役に立つ』
関川夏央著
集英社
本体価格 1300円
発行 2002年4月



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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