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特集:竹内勝美さんのこと
特集:竹内勝美さんのこと(5月号)

竹内勝美さんの人柄と業績をしのぶ(一谷孝:本会常任委員)

 竹内さんが逝ってしまった。私は、同じ教師であったこと、年齢も接近していたこと、視覚障害者として運動を一緒することが多かったこと、そんなこんなで、生前親しくしていただいた。京障連の会議では常に隣に座り、助けてもらうことが多かった。ここでは、私が承知している限りで竹内さんの経歴を紹介して、氏を偲ぶ縁としたい。
 氏は1927(昭和2)年、長崎市で生まれた。幼少時より弱視であったため、県立盲学校の小学部、中学部に学んでいる。高等部と専攻科は、京都府立盲学校に進んでいる。その後立命館大学に進学、卒業後は母校の府立盲学校高等部の教師になった。彼は社会科の担当でありまた生徒指導も担当した。1970年代、盲学校では重度重複学級の設置を求める声が強くなったが、彼はその設置の積極的であり、設置後はその学級の担任となって、指導に全力投球した。1985(昭和63)年3月盲学校を定年退職した。退職後は医療福祉の専門学校で障害福祉論や点字に関わる講座を担当するなど、教育畑に引き続いて身を置いた。障害者教育に一身をささげた人生でもあった。
 竹内さんはまた、視覚障害者福祉にも積極的に関わってこられた。京都府盲人協会(現・京都府視覚障害者協会)の事務局長・副会長、東山支部長を長く務めた。さらに、東山区身体障害者団体連合会会長であり、その縁で京都市身体障害者団体連合会の副会長だった。
 社会福祉法人・視覚障害者療育作業所アイアイハウスの理事長でもあった。
 竹内さんには、奥様との間に横浜にお住まいの一人娘さんがあり、そこの二人の孫の話になると、声の調子が変わるほどだった。結婚当初は弱視だった奥様はその後視力を失われている。また舌癌を患われ手術の結果言葉が鮮明でなかった。難聴も加わって最近では指で文字を書いて意思を伝え合っておられたようだ。奥様の身の回りの世話をこなしながらの各種団体のお世話は、想像を絶するような負担であったに違いない。しかし竹内さんは頼まれたらイヤとは言えない性格、超人的な仕事振りであった。
 氏は幼少時から相撲が得意で体躯は実にがっちりしていた。一方、俳句や短歌も好きで、多くの秀作をモノにされている。
 竹内さんはこの正月頃からしばしば体調の不調を周囲の者に訴えておられた。2月4日に精密検査を受ける予定になっていたが、突然心筋梗塞に見舞われ2月1日、京都市立病院に緊急入院した。小康を得たが3月28日、帰らぬ人となってしまった。
 長崎に生まれ長崎で育った竹内さんは、原爆に親兄弟を奪われている。本人は学徒動員で東北地方の工場で働いていたので被害にあわなかったが、このショッキングな出来事をたびたび口にしていた。そんな体験もあって竹内さんは平和や人権擁護について特別の思いを持っておられた。惜しい人、かけがいのない友人を失ってしまった。いまは安らかにとしか言えない。

竹内副会長を偲んで(大山好勝:本会会計)

 温厚なお人柄の人でした。氏と関わったて四半世紀、京障連など公的なお付き合いで、史的な交際がありませんでした。私的な面も深めたかったと今にして思います。
 頼まれるとつい引き受けられるお人柄もあり、人望・実力が伴って実に多くの要職をお務めでした。それが差し障っての急逝なら返すがえすも悲痛のきわみです。故・川崎京障連副会長の職場での“戦死”と酷似しているように思えてなりません。
 あの世でも「活動」されるであろうお方の、ただただ冥福を祈るばかりです。

熱情・怒り・強さの人 (岸 博実:京都府立盲学校勤務)
 竹内勝美先生を評する言葉として、「静か、笑顔、温和」などが実にふさわしい。 それはまちがいない。
 しかし、京都府立盲学校で教師人生をまっとうされた竹内先生を知る者として、あえて言いたい。竹内先生の本領は「熱情と怒りと強さ」にあったのだと。四つのエ ピソードが浮かぶ。
  1 熱情をたたえた瞳
   ある職員会議の最中、手もちぶさたを感じた私は、真向かいに座っておられた竹内 先生の似顔絵を描いてみた。そのとき、その瞳がなんとも言いがたい輝きをたたえているのを発見して驚いた。どちらかというと細いまなざしとの印象が勝って、何年も ご一緒しながらその瞬間まで気づいていなかったのだが、先生の瞳は不思議なまでに力ある輝きを宿していた。技量ある画家なら、その瞳を描くだけで人間・竹内勝美の 本質を表現しつくせるのではないかと思うほど情熱的な瞳であった。それを見せても らえて、幸せに思う。後に下手な似顔をお目にかけたとき、若気の無礼をとがめもせずに、ただほほえんでくださったのも忘れがたい。
  2 長崎・原爆・平和
   竹内先生は長崎のご出身である。10余年前に「有事立法」がとりざたされた頃、 京都府立高等学校教職員組合の盲学校分会が発行する機関紙「てんぴつ」に、長崎被爆にまつわるご記憶とそれを原点とする平和への思いを寄稿してくださった。青年と して60年安保闘争をたたかい、原水禁運動の分裂に際しても決してゆらぐことなく、核廃絶をめざす「統一と団結」の側に立ちつづけられた先生の胸の底にあったのは、「原爆への怒り」だったに相違ない。
  3 『盲教育評論』論文
   日教組特殊学校部は、『盲教育評論』誌を定期刊行していた。その1963年4月号に竹内先生の「盲教育発展の基本問題について」と題する論文が掲載されている。まだ、発達保障論も、『みんなのねがい』誌も、障全協もなかった時代である。冒頭、「国民はすべて教育をうける権利をもっている。盲児とても例外ではない。この観点に立って盲児の教育を受ける権利が十分保障されているだろうか。」と問うこの論文は、先駆性の見本とも言える。幼児教育、入学基準、普通教育、教科書(点字、拡大文字)、寄宿舎、職業教育、さらには盲学校教師論と、ほぼ全面的に展開されていて、すごい!の一語につきる。
 同誌1970年2月号では、「学校の外へ眼を向けよう」とも呼びかけておられる。 「学校だけの殻にとじこもるのではなく、大胆に障害児のもつ問題を社会に訴え、又、個々に事例毎に教え子の問題を解決して行くことも大切なことだ。」というその主張は、今なお新鮮に響く。京都府立盲学校同窓会、京都府盲人協会(現・視覚障害者協会)、文月会(後の日本盲人福祉研究会―視覚障害生徒の大学進学の道を切り開いた団体)、京障連などの重職を少しも肩をいからせることなく担ってこられた生き方の基礎にその信念があった。気骨に満ちたつよい人だったのだと改めて思う。
  《文月会は昨年解散しましたが、竹内先生たちの努力によって大学での生活、その後の新職業を獲得した後輩たちによって、「しょくの会」という新しい団体が結成されている。》
  4 視覚重複障害児たちとともに
   私が竹内先生のいらっしゃる職場に赴任したとき、先生は高等部に設置されたばかりの重複障害児のクラス担任であった。そのクラスを設置するかどうかをめぐって、対教師暴力をふくむ学園紛争が勃発したのだが、先生は一貫して、「どんなに障害の重い子にも後期中等教育を保障しよう」「いかなる主張があろうと暴力は絶対に許されない」という原則を貫き、当時の学校づくりの最前線に立たれた。ご自分の主張に責任をもつという先生のスタイルが、ごく自然に、困難の多かった重度重複学級を担任するという選択をさせたのだろう。当初、この学級は校内に設けることすらできず、京都ライトハウスの一室を間借りするしかなかった。そんな条件のもとでありながら、 Iさん、Tくん、Sくんなど、いずれも「つわものぞろい」の生徒たちが竹内先生から受けた光は、どれだけの年月を経ても褪せることがないと信じる。
 竹内勝美先生、ごくろうさまでした。そして、ありがとうございました。

東京の宿の思い出(松本美津男:本会副会長)

 竹内先生の、あの穏やかな、そしてにこやかな顔がもう見られないのかと思うと本当に残念です。
 竹内先生に初めてお会いしたのは1970年代中頃でした。いつも穏やかな方で、いろいろな役職を持っておられて忙しいはずなのに、そんな様子をあまり見せられませんでした。娘さんの家が東京に近いということで、障全協の中央行動にも、無理をお願いして行ってもらいました。
 東京で同じ部屋に泊まったとき、ご自分の足に灸をすえながら、熱くない灸だと説明され、私は、そういうものがあるんだなと妙に感心したことが、印象深く思い出として残っています。
 1977年の京障連総会資料を見ると役員名簿の会長のところに名前があがった後、消した形跡があります。かすかな記憶をたどってみるとこの時は一旦会長に推されながら、強く辞退されたようです。それ以来少しの中断はありましたが、常任委員を長く務めていただき、2000年の総会から副会長として京障連運動を担っていただきました。
 竹内先生、本当にありがとうございました


 
 


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