第二部 一人になった『千代野ノート』
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☆08/15更新

第160回 堀川七条

 JR京都駅正面口北側の烏丸七条に東本願寺があり、西本願寺は堀川七条にある。
小欄 146回(「キチローさんと私」その7)で紹介したように、「オイ、ひでボンパソコンやろう。HP作ろう」と、そこで私を誘い1年後(2001年)の5月1日に、ウエブマガジン「福祉広場」は彼が編集長として誕生し、小欄一部「千代野ノート」も連載物の一つとして産声をあげた。一部「千代野ノート」460回、二部「一人になった千代野ノート」も今号で160回、合計すると620回。この回数は「福祉広場」連載物の更新回数と一致する。何度も言うといやらしいが、2001年誕生して22年間、小欄はただの一回も休んでいない。スポーツで言ういわゆる不倒の連続出場である。

 先月24日に作家の森村誠一氏が逝去された。氏の代表作の一つが旧日本軍731部隊を掘り起こした「悪魔の飽食」。それに池辺晋一郎氏が曲をつけたのが、混声合唱組曲「悪魔の飽食」。曲の生誕地神戸と、東京の後の第三回公演が行われたのがこの京都。(1996年7月7日・盧溝橋事件記念日)もう時効と思われるエピソード二つ。池辺氏は舞台で指揮するが、森村氏は客席で鑑賞、しかしながらこのテーマには快く思わない人々も多く、事実神戸では右翼の街宣車が演奏会場周辺でがなる。我々事務局は観客にも警戒して、所轄署に連絡し署員を配置してもらい、森村氏の座席表を事務局、会場スタッフに配った。もう一つは新装の京都コンサート大ホール(2000人収容)、新装でまだ会館側も不慣れだったのか、収容人員オーバーの来客に予備席を作ってくれたのは前にも後にも初めての事だったらしい。
 そんなこんなで、無事に大成功で終わったその夕方からの打ち上げをやったのが、一般的なホテル宴会場でなく、京都らしく堀川七条の西本願寺系列の宿坊の畳敷150入る大広間、当然そこに池辺晋一郎氏、森村誠一氏も参加。そこで私が仲介して、宿坊管理の僧侶に、森村氏サイン入り色紙を会場使用のお礼として贈った。
 その宿坊の七条通りを鋏んだ南側を1軒入った所に、角倉了以第15代の邸宅がある。
明治の東京遷都でさびれる京都復興の一大事業・琵琶湖疏水、取り分け工事の大変更を行って日本初の水力発電の生みの親となった田辺朔朗が、この日本でこの京都で、難工事でも成功の確信を持っていたのが、河川開削の師的存在で江戸初期に高瀬川、保津川開削をやってのけた角倉了以だった。

 前号で、幕末烏丸今出川の薩摩藩邸の跡地に、同志社キャンパスが建設されたことを記した。「ブラタモリ」ではないが、本来の自然地形は変わらずとも、そこに住む人間の営みの中で地名と通称は少しづつ変わっていく。堀川七条もそんな感が強い。

 さて最後に、小欄は上述の「福祉広場」オーナー・井上吉郎氏の昨夏逝去で、今号で母屋の「福祉広場」から自立する。来号161回から http://www.kirara21.net/tomita/ にて継続します(9月1日更新予定)。引き続きのご愛読を!

筆者紹介
富田秀信
1996年春、妻の千代野さんは(当時49歳)、急激な不整脈による心臓発作で倒れていた。脳障害をきたし、何日か生死の境をさまよった。「奇跡的」に一命を取リとめたが、意識(記億)障害で失語、記憶の大半を失った。京都の東寺の前に住む。数多くの市民グループの事務局長をつとめるが、その場に千代野さんの姿がよく見られていた。
しかし20年目の12/19、二人で手をつないで散歩中、突然倒れ心肺停止で、夫の腕の中で亡くなった
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