第二部 一人になった『千代野ノート』
前のページへ戻る 次のページへ進む

☆01/15更新

第146回 キチローさんと私 その6

その6 「悪魔の飽食」から

 懺悔、贖罪など様々な言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。

 この数年の私の好き勝手のしわよせが全てここへきた。
 幸い命は助かったが、記憶・意識障害。これまで22年間の記憶が全て彼女から失われた。
 実はこの年7月7日(盧溝橋事件記念日)「混声合唱組曲・悪魔の飽食」京都公演。これはこの曲が出来た神戸、そして首都・東京を除いて、この日本で京都公演が全国公演の3回目だった。京都公演成功は、この曲が全国展開していく展望だった。私は事務局、妻は市民合唱団員。振り帰るとこの企画のスタートは、健常時の妻との夫婦最後の共同企画となった。今から思えば赤面するが、5月作曲した池辺晋一郎を招いた合同練習日、「妻がどうなろうとも、「悪魔」は成功させる」の発言が全国公演プロデューサーをして大きな檄となった、と。
 片や4092票差まで詰め寄った2月の市長選、井上氏と打ち合わせで、この「悪魔」と市長選をドッキングした。つまり、応援弁士とそのテーマをミドリ十字〜HIV〜京大医学部と言う京都での負の系譜を市民に明らかにした。この体験で同時に大きな企画をくっつける術を私は学んだ。

 そしてそれからわずか4ヶ月後の何と7/7、周りの合唱団員に負けじと、彼は独学(30分の混声合唱組曲)して、2000人収容の京都コンサートホール大ホール舞台に立った。
京都市民は「凱旋将軍が悪魔団員」を目の当たりにした。
ちなみに倒れて3ヶ月の妻は医師のOKを得て、子供たちに守られて客席にいた。「ハルピン郊外20キロ〜♯」から涙していたという。
 続けて、2年後(1998年)初の海外公演は、やはりこの曲が誕生した中国。彼は池辺氏、作家・森村誠一氏と懇意になった。(後日、彼のブックレットに多用)
エピソードが一つ。現地の居酒屋で同行の作曲家の池辺氏や作家の森村氏には、その肩書に中国語訳があるが、彼が自称する「市長浪人」の中国訳がない。そこで彼は周恩来や歴代の政治家の名前を挙げ、京都でそれを目指していると。居酒屋はやんやの喝采だったと記述している。

 彼の最後の市長選(2000年)でも「三度目の正直」ならず。
2ヶ月後、西本願寺の春の陽を浴びつつ、「おい、ひでボン、パソコンやろう」。ワープロも触ったことのない彼が、何を急に言い出すか…?

筆者紹介
富田秀信
1996年春、妻の千代野さんは(当時49歳)、急激な不整脈による心臓発作で倒れていた。脳障害をきたし、何日か生死の境をさまよった。「奇跡的」に一命を取リとめたが、意識(記億)障害で失語、記憶の大半を失った。京都の東寺の前に住む。数多くの市民グループの事務局長をつとめるが、その場に千代野さんの姿がよく見られていた。
しかし20年目の12/19、二人で手をつないで散歩中、突然倒れ心肺停止で、夫の腕の中で亡くなった
ご意見、ご感想をお寄せ下さい。
First drafted 1.5.2001 Copy right(c)NPO法人福祉広場
このホームページの文章・画像の無断転載は固くお断りします。