ルナーティックな散歩道
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☆10/15更新☆

第105回

(この文章は何度も推敲しているのですが、間違った言い方をアップしてしまいます。きっと他にもあると思いますが、前回の号で「ストレート」と書いたつもりが「ストリート」となっていました。また、「階段規則的」は「階段を規則的」です。以上、訂正しますー筆者)

 僕がこの「ルナーティックな散歩道」を書くことの意味は、生きて行く上で必要とする自分の基盤のようなものを探しても見つからず、もがき続けたプロセスを確かめるためだったような気がしている。

 罹病した精神障害周辺の問題を書くことで、障害者また難病を抱えている人たちや生きて行く上で特別の困難に触れている人々に対する連帯のメッセージを送ることを意図としたような気がしている。
 僕は精神疾患を罹病することで崩壊してしまったそれまで維持してきた価値、存在理由の再構築を希求した。
 いや、そんなことを言えば格好良すぎる、スタートは自分の生きる地点を築こうとするとともに僕という人間を理解して欲しいという願いからであった。だが、いつの間か書いている途中で、あくまでも僕を軸にしてはいるが、障害者が生きて行く中で生起するに違いない諸問題を意識しながら書いていることに気づいた。

 僕は40歳を前後して、色々の作家の文章論を読んできた。
 また作家同士の文学に関わる対談なども意識的に読んできた。特に僕を勇気づけたのは大江健三郎と井上ひさし、そして村上春樹、高橋源一郎並びに保坂和志らの文章や文学に関わる提言・定義であったが、長くなるのでここでは、その理由・根拠などは挙げずに名前だけに留めておくこととする。

 「おまえが書いているものが文学か!」と誰かが言えば、ただ僕は黙するしか、それには対処する方法がない。
 きっと、書いている文章が全てであり、つまり「ルナーティックな散歩道」についてのなんらかのことを僕が流々と書き上げてもなんの意味も持たないだろうから。

 「文章を書く人間は、そのとき確信できるものを、はっきり表現しなきゃいけないと、ぼくは考えます」(大江健三郎「半世紀後の『ヒロシマノート』」インタビュー記事 “早稲田文学 2015年秋号”)
 上記は、書くという行為又作業を60年間続けてきた作家の言葉である、それなりの真理と重さを含んでいるのではないだろうか。
 ちなみに別の本で、いくつかのケースに触れながら大江は「書く」ことは「生きる」ことだとも言っている。
 彼は、書いて考えて、そして読んで、必要に応じて行動した。
 60年安保の時にもデモの中にいたし、憲法9条が改憲される危機を感じて政治行動をも起こした。何度も集会でマイクを握った。既知のように核や原発の問題でも発言した。
 なにか余計なところに行ってしまったのであろうか?
 いや、そんなことはない、僕は去来してくるいくつかのシーンと、それに覆い被さるような形で浮遊してくる思いを一度自分の胸の奥深いところで咀嚼し、心のどこかでろ過させて尚も形を残すものについて書き連ねてきた。
 同時に読む作業や、いくつかの政治行動などをも日々繰り返す中でそれを継続してきた、素直で率直な意識と自分の生を確かめるような姿勢を保ちながら。
 この文章では自分が確信できることを表現してきたのではと思っている。

 僕が「双極性障害T型」(躁うつ病)を発症した以降の生活史の中で体験したことは多くあるし、出会って、別れを告げた人も決して少なくはない。それらの出会いと別れには忘れがたい物語がいくつもある。
 その中で、僕が止むを得なくも強いられた精神の緊張や解放に関わるエピソードをまだまだ語りたいという、どうしようもない衝動があることも否定しがたい。

 2015年2月のある日。
 僕は昂ぶる感情と生命の躍動感、果てしなき投企への渇望を抑えきれず、精神科医との相談のもと服用をずっと続けている抗精神病薬を増量した。
 また平均で4時間にも達しないような睡眠時間が続いたため、「フルニトラゼパム」という睡眠剤を増量した。
 自然と、身体的学習によって知ることに至った精神的危機を回避する方法を駆使し、自分を防護しようとした。
 連れ合いは何度も僕に対する警告―「もっと行動と発言を自制すべき・・・」―を行い、常軌を逸してしまうまで爆発的な行動をしてしまいそうな僕を諌めたが、なんの効果も持たなかった。
 躁うつ病は自省し、思考を巡らせることで行動をコントロール出来るような疾患ではなく、薬の増量又は精神科病院への入院という方法によってしかその病態を沈静化させ得る有効な手立てはない。あるいは強制的に休むこととか。

 「北山さん、すごく精神が高揚し気持ちが昂ぶっていますね。これ以上進むと入院の必要もあるかもしれませんね」、主治医はその当時、僕の生活状況の判断、診察時に重ねられた言動への臨床的な分析を行う中で、そう主張した。
 僕の焦燥感をともなった恐怖でどこかに落ちて逝ってしまいそうな感覚は、不思議なことにその医師に言葉でさらに高まった。
 ある意味、放埒的と言ってもいいような行動さえしてしまいそうな「恐怖感」さえも芽生え、結局、以前体験したように無理に無理を重ねてしまい破滅的な行動のあとどこにも行けない袋小路に追い込まれてしまうのではないかという意識が僕の前から消え去ろうとはしなかった。この苦しみは、また独特な苛立ちは躁うつ病を体験したものしかわからないかもしれない・・・・・・

 2015年10月4日。
 僕は20年を超える時間を、精神障害者のケア・サポート活動に尽くされてきたIさんという一人の女性と会うために京都駅中央口の周辺にいた。約束の時間は午後1時。
 僕はJR桂川駅から京都駅に向かった。
 駅に着いてから少し時間的余裕があったため、伊勢丹の地下売り場をうろつき、出町柳の「ふたば」の豆餅を企画で販売していたので2個購入し、デパートを正面入口から出た。約束の時間にはまだ時間があった。
 何気なしに周りを見渡すと、伊勢丹からJR京都駅に至る南北に走る連絡通路の一画で「原爆展」をしていた。
 被爆後の荒れ果てた街や悲惨な人々の様子を描いた絵と写真、並びにそれに関したキャプション、そして被爆を報道した新聞のコピーで構成されていた。見ている人は少なく、若い人は皆無であった。
 僕はゆっくりと順番にパネルアップされた展示作品を見て回った。絵をひと通り見てからパーテーションの裏側に回るとひとつの写真が眼に入った。
 ジョー・オダネルが撮った有名な写真。「焼き場の少年」だった。
 死んでしまい頭を横に力なく垂れた弟を紐で背負いながら、直立不動の姿勢で腕を真っ直ぐに伸ばし、手も開いたまま身体にピッタリとつけて一心に前方を見つめる半ズボンの少年。
 そこには、悲しみや哀感を超越し何かの決意を伺わせるような厳しい表情をした少年が写し出されている。
 僕はその写真は本で小さく印刷されたものは既に何度か見て知っていたし、WEBマガジンの「毒吐録」でも筆者の感想とともに紹介されてもいたものだ。でも、僕のその写真の「現物」との出会いは全くの偶然で初めてのことであった。
 僕はじっと食い入るようにその写真を見た。
 どのくらい見ていただろうか、いつの間にか心底からこみ上げてくる怒りのような、悲しみのような、少年に対するなにか連帯感にも似たような、名状しがたい感情が僕を捉えて離さなくなった。
 僕はその少年と同じ場所に立っているような錯覚を覚えるとともに突然涙がこぼれ出し止まらなくなった。ハンカチで何度か涙を拭いたが、別に周りの人の眼など気にならなかった。10分間近くその写真の前に立ち尽くしたであろう、でもこの止めどもなく流れた涙も果たして僕の躁うつ病による感情の病的な昂ぶりの現出のなせる技であると誰かが言うのであろうか・・・・・・。 (第一部終了)

 

 ※あとがきとして
 (「ルナーティックな散歩道」を僕は長い時間をかけて書いてきました。この作品はーなにかプロの書き手みたいな言い方で恐縮ですがー自分の分身のような気がします。105回目の草稿を原稿用紙に書き上げ何度か書き直し、更に「Word」で推敲しながら書き進める中で僕は思いました。ここで一度折り返し地点と位置づけて、これまで書いたものを第一部としようと。今、書き進めている違ったものも3つあります、ほぼ毎日文章を書いている状況です。そしてまた新しく2本のものを書く予定です。この「ルナーティックな散歩道」にかける時間が相対的に減少してしまいますし、あくまでも個人的な感覚なのですが、また鼻持ちならない言い方かもしれませんが、質を落としてまでも連載を継続したくはないとの思いがあります。よって、この回をもちまして第1部とし、とりあえず連載を中止します。尚、「ルナーティックな散歩道」にかける思いは深くて強いものがあり、2016年の春、桜が散る頃に第2部として必ず再開します。またお読み頂ければとてもうれしく思います。ご愛読ありがとうございました。こころから感謝申し上げますー北山一憲)

 筆者紹介
北山一憲
生協に勤める。35歳の時、「肉体的、精神的な極度の過労による精神的錯乱状態が認められるとともに、強い鬱的状況にもあって」との診断を受ける。アフター5に出会う人との付き合いを大切にし、大学などでも自らの体験をもとに特別講義を行っている。
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