健ちゃんのズッコケ週記
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☆9/10更新☆

第57回 プロレタリアート情歌・女編  枝垂れ桜の木の下でE

 「お金儲けに」と考えた「葬儀での弔辞代行作成」は、山科区の鉄工所社長の遺族から一件注文があっただけで、挫折してしまった。パンフレット作成費用、郵便代、交通費、土産購入など取材費、その他もろもろ、ということで約20万円の出費。それに対して鉄工所社長の息子が振り込んできたのは5万円。
 
 フリーライターの鍵仲夜子、諸角飛魚子はもともと無産階級、だから「お金を儲けたい」と言い出したのが事の始まりで、この経費を払う余裕はない。勧進元を引き受けた僕が行き掛かり上、負担せざるを得ない。
 
 もう4月。久しぶりに夜子から電話があり、「償いの意味でご馳走したい」という。安保世代として学生時代、プロレタリアート運動に大いに共鳴してきた僕がプロレタリアートから収奪するわけにはいかない。それで、「ささやかな宴を」ということで、いつもの居酒屋[川獺の巣]でおごってもらうことになった。
 
 2人ともくじけてはいない。「私、こんなことであきらめへん。なんか考えようよ」と、僕の左側に座った夜子が冷酒を一気に喉に流し入れると、右側の飛魚子は「失うものは何もない私は根っからのプロレタリア、何でもやります」と気炎をあげる。また、この晩は金儲け作戦会議となった。
 
 カウンターの奥の食器棚の上に置かれているテレビで吉田兄弟が「バチンバラバラ」と盛んに津軽三味線を打ち鳴らしていた。

 閃いた、そうだ、この手があるんだ。僕が口を開く前に飛魚子が「私、おどるっ」と手を打った。夜子が「ほんなら、私、飛魚子ちゃんの伴奏をやる」と立ち上げって宣言した。期せずして3人が同じ事を考えたのである。

「場所は円山公園、枝垂桜。どや、そうか」と僕。「そやねん」と2人。
 
 北海道の大地で育ち、自由奔放な面がある飛魚子は学生時代からフラメンコを習っている。もう独り立ちしていいぐらいの実力派で、一回だけ舞台を見たことがあるが、大柄な体から汗が飛び散り、挑むような表情は迫力満点だった。

 京女の夜子は昔気質の祖母のもとで日本舞踊と三味線を習い、三味線で満足できなくなり、最近は津軽三味線に凝っていた。津軽三味線は厳しい風土が生んだ生への怨念をぶつける楽器。

「弾く」というより撥を糸にたたきつけるというほうが合っている。いつも表情を変えない夜子が弾くと、能面のような表情だけに反って一種の妖気のようなものが漂い、これまた恐ろしいほどの迫力を感じる。
 
 4月8日。金曜日。

 円山公園の枝垂桜は4重、5重と花見客に取り囲まれ、まるで酔ったように薄紅色を増し、黒々と広がる夜空に身悶えするかのごとく妖しげに幹から枝を伸ばしていた。桜を見入る人々から3メートルほど離れた路上に夜子は用意した茣蓙を敷いた。
 
 午後9時。

 知恩院の方向から低い鐘の音が聞こえるのをまっていたかのように、真紅の衣装の飛魚子がさっとポーズを決める。やにはに津軽三味線がはじける。事前に2人は30分ほど音と踊りをあわせただけだが、今ここで、2人の息には乱れがない。
 
 津軽三味線とフラメンコという異質の芸術の前代未聞のセッションの幕は開かれた。

 ほとんど表情を変えない夜子、漆黒の闇を背景に手、足を思い切り伸ばして大きな身振りで女の深い喜びと悲しみを交互に表現する飛魚子。2人の向こうには枝垂桜が静の存在として佇立している。

 津軽三味線とフラメンコが絡み合い、ぶつかり、捩れあって、また離れる。
 
 ああ、2004年。晩春の宵のひととき。花見客は枝垂桜を忘れて、ただ呆然と2人の表現に見入るだけーー。
 
 僕は「これこそお金がとれる芸術だ」と確信しながら、今後、お金に縁のなかった2人のフリーライターがこの夜を期して、新しい世界に突き進んでいくことを予感していた。

(この項、終わり)

筆者紹介
落合健二
“往年の社会部「花形記者」の僕は見る影もなく、うじうじしながら定年を迎えるのだった”と新聞社を2000年末で定年退職。取材者、書き手、企画者として多面的な仕事振りで名をあげた。“報道と人権”などの、取材現場を踏まえた講演にもフアンが多い。2001年9月からは週刊情報紙『あいあいAI京都』編集長、居を構える琵琶湖畔から京都市内に通うようになった。
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